第9回 京都近代化のハイライト事業
今回から第12回まで、「京都策」第2期の中核プロジェクトで京都近代化のハイライトともなった琵琶湖疏水建設と、その関連事業を取り上げます。京都策とは、明治から大正に至る一連の近代化政策の地元での呼び名です。このシリーズの第1回で紹介したように、京都策は時代や担い手の変遷に対応して3期に分けられています。第1期は1868(明治元)年から’81(明14)年ごろまでで、西洋技術の導入を軸に産業復興=近代化への道筋がつくられました。続く’81(明14)年から’95(明28)年ごろまでが第2期で、この時期に琵琶湖疏水建設が計画、実行され、京都の新たな発展の可能性を開きました。そして、’95(明28)年から大正年間(~1926)が第3期です。この期は、琵琶湖疏水完成のうえに立って「三大事業」、すなわち第二琵琶湖疏水建設・上下水道敷設・道路拡築と電気鉄道敷設が行われ、都市の近代化に不可欠の基盤機能(インフラ)が整えられました。
ところで、京都策の第1期は、その推進者であった第2代京都府知事、槇村正直(まきむら・まさなお、1834~96)が’81年、元老院議官に転任したことで区切りを迎えます。槇村は、荒廃した京都の立て直しに奔走し、強力なリーダ-シップで数々の事業に取り組みましたが、成功した事案はそれほど多くなく、推進手法も強権的だったため、関係者との摩擦が絶えなかったといわれています。むろん、歴史的には高い評価を受けていますが、そうした側面も記憶しておくべきでしょう。
次の知事となったのは、高知県令だった北垣国道(きたがき・くにみち、1836~1916)です(県令は現在の知事職ですが、当時、「知事」の職名は東京・京都・大阪3府だけに用いられました)。
北垣は江戸時代後期、但馬・能座村(現 兵庫県養父市)の中農・郷士の家に生まれました。父の勧めもあって幼少時から勉学に励み、論語など漢学を修めています。幕末の動乱期には尊皇攘夷の活動にのめり込み、1863(文久3)年には但馬農民の困窮を背景に生野(現 兵庫県朝来市生野町)で尊皇討幕の挙兵(生野義挙)まで行っています。企ては失敗しますが、この事件により、いわゆる勤王の志士との親交を強めます。維新後は官軍に採用され戊辰戦争に参加、“北越征討”で功を挙げ、新政府に認められます。官界に入った北垣は、熊本県大書記官、内務少書記官、高知県令などを経て京都府知事に着任したのでした。直前の高知で、自由民権運動の規制などで実績を挙げたことが“栄転”につながったとされています。ただ、自由民権運動の規制といっても決して強権弾圧ではなく、あくまでも条例にのっとった、筋を通した対応であったと評価されています。そのため、“横暴専制”の槇村に反発を強めていた府民から、好意をもって迎えられたといわれています。
さて、着任した北垣は、その頃には手詰まり状態となっていた槇村の京都振興策の見直しに取りかかります。そして、舎密局(せいみきょく)や織殿・染殿などの諸機関・諸工場は「一定の役割を果たした」として民間に売り払われました。並行して、新たな政策の立案を進めます。その一つが、京都―大津間に水路を開削し、琵琶湖の水を運輸・動力源・諸用水などに利用する琵琶湖疏水建設構想でした。
琵琶湖の水利構想はこのとき初めて発案されたものではなく、すでに古くは平清盛が計画しています。清盛は、京津間のみならず琵琶湖北端の塩津(現 長浜市西浅井町)と敦賀(福井県)を結ぶ運河をも建設し、京都―敦賀間の一大水運ルートを考えたといわれています。一部で着工したとの記録もあります。江戸時代から明治初めにかけても、琵琶湖から宇治経由で伏見―高瀬川に水路を開く案や、大津の園城寺(三井寺)付近から西進して大文字山を擁する如意ケ嶽まで運河と隧道で結び白川に至る案などが、京都だけでなく大津側からも出ています。というのも、京都と周辺地、とくに近江(現在の滋賀県)・美濃(同岐阜県)・伊賀(同三重県)方面や、北前船の拠点港である敦賀(福井県)方面との物資輸送が、山が障碍となって運搬効率・コスト・対応力など多くの課題をもたらしていたからです。それらを解決する手立てとして、水運用水路の開設が考えられた訳です。しかし、いずれの案も、地形的な問題、計画の不十分、土木技術の水準、費用などから具体化に至りませんでした。
北垣は、京都で殖産興業を本格化するには工業の拡大が必須と考えていました。そのためには新たな動力源確保と、原材料・製品輸送力の強化を図らねばなりません。そこで、かねて“夢の構想”であった琵琶湖疏水を実現させ、その方策としようと考えたようです。実際、’81(明14)年2月の着任後わずかのうちに、府の関係部署に琵琶湖湖面と京都盆地との高低差など基本調査を命じています。また、伊藤博文ら新政府要人にこの構想を説明し、折から建設中の福島の安積疏水(あさかそすい、猪苗代湖から奥羽山脈を超えて郡山盆地に湖水を導き、主に灌漑利用する目的で1879(明12)年着工された)の見学も行っています。
さらに、当時、日本のトップクラスの土木技術者で安積疏水の工事主任を務めた南一郎平(みなみ・いちろべえ、1836~1919)を京都に招き、構想を諮問しています(’82(明15)年2月)。南は現地踏査を行い、実現可能との『琵琶湖水利意見書』を北垣に提出しています。また、北垣は、熊本県大書記官~高知県令時代の部下だった測量技師の島田道生(しまだ・どうせい、1849~1925)に協力を求め、南の意見書の精密な裏付けを行っています。その結果、南の案を下敷きとして、’83(明16)年春までに「琵琶湖疏水設計書」を完成させています。
このとき併せて作成した琵琶湖疏水の趣意書では、次の7項目の目的・効用を挙げています。
1.製造機械の事(水車動力を確保する)
2.運輸の事(通船運搬により運賃コストを大幅に引き下げることができる)
3.田畑の灌漑の事(干ばつ被害を食い止められる)
4.精米の事(当時、京都における消費米の半分を域外で精米したのをすべて市内でできる)
5.火災予防の事(何度も大火に見舞われた京都の防火消火の備えとなる)
6.井泉の事(主に井戸水に頼っていた京都の生活用水・生産用水の確保)
7.衛生に関する事(琵琶湖水を市内の河川に流し、衛生を改善する)
趣意書には、琵琶湖から導水した場合の利害(効用と影響)を金額で計り、“損益見込み”も示しています。それはともかくとして、当初の主要目的は水車動力の確保と通船運搬、田畑灌漑でした。
その後、実現までには工事費用見積もりの精査と資金計画の立案、地元の同意獲得、滋賀県ほか近隣府県との調整、新政府内の関係役所への配慮(内務省と農商務省が主導権争いをしていた)と着工許可の取り付けなど、いくつもの課題をこなさなければなりませんでした。とくに資金面では、産業基立金、府庁・国庫下渡金、寄付金などを主材源と考えていたものの、工事費見積もりが最終的に125万円(現在の価値換算で1兆~1兆3000億円程度)に達したため65万円(その後圧縮)が不足となり、結局のところ上京・下京の住民に賦課(目的税として徴収)せざるをえませんでした。蛤御門の変(禁門の変、1864(元治1)年)による大火で家屋や仕事場を失ってから20年、事実上の遷都で有力顧客を失ってから17年を経て、ようやく社会経済的な落ち着きを取り戻したとはいえ、予想外の賦課は住民にすんなりと受け入れられず、憤慨した住民から「こんど来たガキ(北垣)は極道(国道)者」と罵りの声が上がったということです。
それでも琵琶湖疏水建設は’85(明18)年6月、起工式(大津と京都の双方で開催)にこぎつけたのでした。
2013/07(マ)
*次回は「琵琶湖疏水建設(その2)」です。
【参考資料】
▽京都市上下水道局編『琵琶湖疏水の100年』
▽京都市上下水道局・琵琶湖疏水記念館常設展示図録(2009年版)
▽京都市編『京都の歴史』第8巻・第10巻(學藝書林)
▽織田直文『琵琶湖疏水―明治の大プロジェクト』(かもがわ選書)
▽浅見素石『よもやまばなし 琵琶湖疏水』(サンライズ出版・淡海文庫)
▽田村喜子『京都インクライン物語』(中公文庫版)
明治16年11月頃に描かれたという琵琶湖疏水実測図
南禅寺舟溜まり沿いの「琵琶湖疏水記念館」(正面の建物)では疏水の計画から完工に至るに諸資料が展示、紹介されている(手前は岡崎方面に向かう疏水路)
琵琶湖疏粋建設事業を推進した第3代京都府知事・北垣国道の銅像(夷川舟溜まりの疏水事務所構内)
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