第21回 近代京都の都市基盤を築いた「三大事業」(その1)
今回から、「京都策」の第3期といわれる明治後半から大正年間に至る期間(1895年頃から1925年頃)の取り組みをたどります。この時期、京都市は「三大事業」と呼ぶ、第二琵琶湖疏水(第二疏水)建設、上水道整備、道路拡築および市電敷設を行い、近代都市に不可欠の基盤装置・設備(いわゆるインフラ)を整備しました。この大プロジェクトは「近代化」の仕上げと言うことができます。それにより、京都は20世紀に向けて大きくはばたくことができるようになりました。
将来をにらんだ京都大改造プロジェクト
それにしても、どうしてこの時期に「三大事業」だったのか――。それは幕末・維新から30年を経て、荒廃した京都の市街地の復興がすすみ、かつ産業振興策の推進によって経済活動も拡大し、人口・物流ともに大幅に増加していたからです。たとえば人口は、維新後の1873(明6)年は江戸後期に比べて10万人減少の23万8,000人でしたが、1880年代後半から盛り返し、’99年(明32)年には36万人近くにまで増えています。市域が拡大したので単純比較はできませんが、市内中心部に限っても毎年1万人規模で人口が膨らんでいきました。
都市人口が増加していったということは“はたらく場”も増大したということです。そうなると当然、生活・産業の両方で大量のエネルギー、水、各種物資が必要になってきます。’90年代後半になると早くも、琵琶湖疏水(第一疏水、’90(明23)年完工)だけでは水力発電量も水そのものも、遠からず供給に限界がくることが明らかになってきました。とくに上水道は、市内への配水整備を後らせたため、井戸の水枯れ、産業廃水・生活排水による水質悪化、市中の河川・水路の汚濁が進んでいました。経済活動の活発化で人やモノの行き来が多くなり、市中の道も車両が行き交えるよう拡幅が求められ、また人員輸送のための新しい手段も必要になっていました。
こうした状況を改善するべく、京都市では欧米の大都市をモデルに諸施策が練られました。その結果、リーダーから、当面の対応だけでなく将来を期するために思い切った都市改造に取り組むべきであるとの強い思いが出され、飲料水・産業用水・水力発電用水確保のための第二疏水建設、水道網整備、道路拡幅、市電網拡大が計画されたのです。同じ頃、東京や大阪でも都市改造・機能強化が図られていましたから、それらへの対抗心もあったと思われます。
とはいえ、いずれも膨大な費用を要する大事業です。資金をどのように確保するかが大問題となりましたが、海外で債券を発行する方法で調達し、見事完成にこぎつけました。以下、着工までの経過と各事業の内容を追います。(各事業の内容は次回)
金融小恐慌・日露戦争で事業化棚上げ
京都改造計画は1900(明33)年ごろに始まったとされています。時の市長、内貴甚三郎(ないき・じんざぶろう、1848~1926/嘉永1~大正15)が、市会に将来の都市像を提起したことで事業構想がスタートしました。ちなみに内貴は、京都市制が1898(明31)年に“特例市”から“普通市”へ移行したのに伴い選任された初代の民選市長(ただしこのときの民選は市民による直接選挙ではなく、市会が推薦して天皇が裁可する制度)で、経済界出身です。内貴は市長就任前、市政執行機関である「京都市参事会」の名誉職員(無給勤務者)を務めていました。このとき、市参事会として市会に対し、市の発展を期して市内道路の拡張・下水改良を行うべきであると具申。その事業調査・監督のための臨時土木委員会を設置させ、委員長には内貴が就任しています。そして市長に就任するや、自ら実現に乗りだしたことになります。
内貴市長は「50万以上、100万の人口を作る京都」に向けて市域の拡大(周辺町村の合併)と産業・教育・風致などの地区別機能を構想し、それらを支える都市基盤の整備(具体的には道路拡幅、下水改良など)の必要を説きました。これを受けて市会は土木調査委員会(委員長 大沢善助)を設置し、具体案の検討や欧州における都市経営の視察調査を進めました。そして1900(明33)年中に、内務省へ上下水道整備、道路拡幅のための事業申請(国庫補助申請)を行うまでにこぎつけたのでした。
ところがこの時期、国内の景気が悪化し、’01(明34)年には京都の経済界が経営参画していた関西貿易会社までもが金融不安によって破綻するなどパニック状態(恐慌)に至ったため、計画は一時停止を余儀なくされます。’04(明37)年2月には日露戦争が始まり、さらに棚上げになります。ようやく事業具体化に動きだしたのは日露戦終結後の’06(明39)年でした。
成否の財源はフランス債を発行し、調達
この間、初代民選市長の内貴は任期満了をもって退任(退任後、衆院選に出馬し当選)しており、京都改造事業は2代目市長に就任(’04(明37)年10月)した西郷菊次郎(さいごう・きくじろう、1861~1928/文久1~昭和3)に引き継がれていました。西郷は、西郷隆盛が奄美大島に配流中、島の娘との間にもうけた子息です。名前の菊次郎は父の変名(菊池源吾)にちなんで付けられたといわれています。少年時代、米国に留学。長じて父に従い西南戦争に参加したものの負傷して政府軍に投降し、以後は外交官などを歴任した“大物”です。
西郷市長は’06(明39)年3月市会で、あらためて京都の都市改造事業の必要性を述べ、第二疏水建設、上水道整備、道路拡築・市営電気鉄道敷設着工を訴えたのでした(このとき、西郷がそれらをまとめて初めて「三大事業」と称した)。そして同年4月、内貴前市長時代に申請していた第二疏水建設の許可が内務省からようやく下り、同年11月に市会で第二疏水と上水道建設の予算を可決。道路拡築については、市会内部で対象路線や道路幅をめぐって対立があったものの、’07年(明40)年3月の市会で「道路拡築並電気軌道建設費」を可決するに至ったのでした。
ただ、実際に建設に着工したのは、第二疏水が’08(明41)年、上水道は’09(明42)年、道路拡築が’10(明43)年、市電敷設が’11(明44)年で、市会の予算可決から時間を要しています。これは資金調達のためでした。3事業の費用見積もり合計は1716万円で、この額は第一疏水事業の13倍、当時の京都市の市税収入の34倍、歳入総額(’06(明39)年度110万円)に対しても15倍以上にものぼる、まさに巨大規模でした。西郷市長は「実に百年の大計を図る上において、最も有益なるのみならず、その財源を外資に仰がんとする上においても恰好なる事業と信じる」と、外資を導入してでも完遂する方針を示しました。実際、第二疏水建設資金は日本国内で確保のめどを付けたものの、他の2事業はフランスで外債を発行し、確保したのでした。
外債は、’09(明42)年7月から年利5%で10年据え置き後に20年で償還するという条件で4500万フラン(日本円で1755万円=当時)で販売され、さらに’12(明45)年に500万フランが追加発行されました。
ところで、市民がこぞって三大事業に賛成した訳ではありませんでした。上水道建設には賛成しつつも利害関係がからむ道路拡築・市電敷設には市会でも異論が噴出し、また多額の事業費支出、とくに外債を発行してまで資金を調達(つまり外国から借金)することを危惧する意見も多く、反対の市民集会まで開かれています。
2014/07(マ)
*次回は「三大事業」(その2)です。
【関連年表】
1889(明22)4月 京都市制(特例市制=市長を府知事が兼務)施行、第1回市会議員選挙
1890(明23)4月 琵琶湖疏水(第一疏水)竣工式
1894(明27)7月 日清戦争開戦(~’95(明28)年5月)
1895(明28)2月 京都電気鉄道・伏見線(伏見町油掛~七条)開業
1895(明28)4月 平安遷都千百年記念祭・第4回内国勧業博覧会開催(会場は岡崎)
1898(明31)10月 京都市の特例市制が廃止され普通市制に移行(区を設置)
1898(明31)10月12日 市会推薦、天皇裁可により内貴甚三郎が民選初代市長に(~’04(明37)10月)
1900(明33)6月 道路改築と下水改良事業が京都市会に初めて提案される
1904(明37)2月 日露戦争開戦(~’05(明38)年9月)
1904(明37)10月 京都市第2代市長に西郷菊次郎就任(~’12(明44)年7月)
1906(明39)4月 第二琵琶湖疏水工事認可
1906(明39)11月 市会が琵琶湖疏水・水道水道敷設工事の予算可決
1907(明40)3月 市会が道路拡築並電気軌道建設費の予算可決
1908(明41)2月 水道敷設認可
1908(明41)10月15日 平安神宮で三大事業起工式挙行、第二疏水起工
1909(明42)5月 フランス債発行契約成立
1909(明42)上水道建設開始
1910(明43)道路拡築事業に着工
1911(明44)市電敷設事業に着工
1912(明45)1月 第3代市長に川上親晴就任(~’12(大1)年12月)
1912(明45)4月1日蹴上浄水場から水道給水開始
1912(明45)5月10日 第二琵琶湖疏水通水、
1912(明45)6月 市電の一部が運転開始
1912(明45)6月15日 三大事業竣工式
1913(大2)3月 第4代市長に井上密就任(~’16(大5)年7月)
1913(大2)8月 市電の第一期路線が全通
1914(大3)4月 夷川発電所完工
1914(大3)5月 伏見発電所完工
【参考資料】
▽京都市編『京都の歴史』第8巻・第10巻(學藝書林)
▽京都商工会議所百年史編纂委員会編『京都経済の百年』(京都商工会議所)
▽京都市上下水道局・琵琶湖疏水記念館常設展示図録(2009年版)
近代京都の都市の姿は、主に明治の道路拡築事業により形成された(写真の真ん中は烏丸通り)
都市の改造事業を行うに当たり、資金調達のため京都市が発行したフランス債の証券見本
過去の記事
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