京都再発見

京都・近代化の軌跡  民間企業の興隆と経済人の活躍(その6)
京都・近代化の軌跡

第第18回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その6)


 今回から、産業界の各分野で活躍し斯界をリードした経済人を順次、紹介します。

■ 京都商工会議所の初代会長で電気事業の草分けとなった 高木文平
 高木文平[たかぎ・ぶんぺい、1843~1910/天保14~明治43]は京都商工会議所の初代会長を務め、明治前期の京都経済界の組織化に尽力した人物です。京都府北桑田郡神吉村(神吉村はその後、船井郡八木町に編入され、現在は南丹市)在住の、旗本(江戸幕府直参の武士)領地の代官の家に生まれました。20歳で江戸に下り、領主(旗本)の用人見習を勤めたのち、出生地に戻り代官職を継ぎました。明治維新後は私費で自分の村に学校を開設して子弟の教育を行い、また産業奨励にも取り組みました。
 そうした実績から区長に推され、1875(明8)年には京都府知事の槙村正直(まきむら・まさなお)に招かれ、府の「監察」(知事直属の行政監査役)に就任しています。
 ‘79(明12)年、京都産品の輸出促進のため京都名産会社を創設。’82(‘明15)年に槙村知事の肝いりで京都商工会議所が設立されると初代会長に推され、一躍、京都経済界の指導者となりました。
 ’88(明21)年、上京・下京連合区会議員(当時は市制が施行されておらず、洛中の重要事は「区会」に諮られていた)の代表として、主任技師田辺朔郎と共に運河視察のために渡米した際、電力時代の到来を確信し。帰国後は琵琶湖疏水事業に水力発電を加えるために尽力しました。こうして実現したのが日本初の水力発電所、蹴上発電所です。さらに、蹴上発電所が発電した電力を積極的に利用するため市街地で電車を走らせることを発案し、そのために京都電気鉄道株式会社が ’94(明27)年に設立されると初代社長に就任しました。その後も、宇治川水力発電所を建造した宇治川電気株式会社(いわゆる発電会社で、後の関西電力につながっている)の取締役を務めるなど電気事業の草分けとして活躍しました。

■ 茶業の近代化をリードし、民権派政治家としても活躍した 伊東熊夫
 伊東熊夫[いとう・くまお、1849~1913/嘉永2~大正2]は京都製茶業界の近代化に努めた経済人であると同時に、教育事業家や政治家としても活躍しました。
 淀藩領地(綴喜郡普賢寺村、現在は京田辺市内)の庄屋に生まれ、1868(明1)年 家督を継ぎますが。折からの大転換期の中、自由民権運動の刺激を受け、民権研究を行うとともに家塾を開いて子弟の啓蒙に取り組みました。’78(明11)年、綴喜郡第三区長となり、翌 ’79(明12)年、京都府会の開設とともに選ばれて議員になり、’90(明23)年には第1回衆議院議員選挙に立候補して当選を果たします(巴倶楽部所属)。
 “本業”ともいうべき実業関係では、地元の産業(とくに製茶業)振興に向け、’78(明11)年に綴喜郡茶業総代会を創設、京都府茶業組合取締所の設立にも奔走(初代会頭に就任)し、製茶業者の近代化をリードしました。自らも山城製茶会社を起こし(’86(明19)年)、経営しました。とくに緑茶輸出に力を注ぎ、’90(明23)年に輸出業者を合同して日本製茶会社を設立。また、輸出品の品質維持のため神戸に製茶調査所を設けてその所長を兼ね、’96(明29)年には日本製茶輸出株式会社も設立しています。その間、伏見銀行頭取、伏見商業会議所(’95(明28)年設立)初代会頭にもなっています。
 政治に関しては、一貫して民権派として活動し、とくに ’80(明13)年頃から高まった国会開設を求める運動では南山城地域におけるリーダーとして活躍し、交話会と称する地方政治団体も組織します。そして、前回紹介した田中源太郎・浜岡光哲らの公民会と対抗します。
 そうしたさなかの ’81(明14)年、伊東は同じ南山城の民権活動家、西川義延[にしかわ・ぎえん、1848~1908/嘉永1~明治41、京都府議会議長・衆議院議員など歴任]らと「南山義塾」を開設します。小学校卒業者を対象にした私立学校です。この地域の富農の子弟の教育機関の役割を果たすのが目的で、株を発行して資金を募り綴喜郡三山木村(現 京田辺市内)に校舎も建設します。漢文や歴史など教養科目が中心でしたが、民権精神が底流にあったことは否めません。南山義塾は程なく、民権派を支持する住民を懐柔するための政略に使われ、府立中学校(三山木中学)に格上げされた挙げ句、’86(明19)年に廃校されてしまいます。

■ 西陣織の芸術的価値を高め世界に発信した 二代目川島甚兵衛
 二代目川島甚兵衛[かわしま・じんべえ、1853~1910/嘉永6~明治43]は、1843(天保14)年創業の呉服悉皆業(ごふくしっかいぎょう=着物の総合サービス業)上田屋に生まれましたが、子どもの頃から織物図案・製法などに興味を示し、美術織物の製作に没頭します。1879(明12)年に家業を継ぎますが、機業家への志絶ちがたく’84(明17)年に川島織物工場を設立し、丹後ちりめんなどの織法改良や、唐錦や綴織(つづれおり)の模様織の製作改善に取り組みました。’86(明19)年、日本の美術織物の紹介と外国美術織物の研究を兼ねてヨーロッパに渡り、フランスでゴブラン織を研究。その特徴を綴織に採用して綴織製美術織物の大作を次々と製作しました。このように、二代目甚兵衛は西陣織の芸術的価値をいっそう高め、川島織物工場(後に株式会社川島織物、現 株式会社川島織物セルコン)はその先進を行きます。現在も劇場の緞帳(どんちょう)製作では屈指の企業です。
                          (この項はシリーズ第8回の記述を再掲)

■ 著名な日本画家を友禅染の下絵師に起用して業界を活性化させた 西村総左衛門
 西村総左衛門[にしむら・そうざえもん、1855~1935/安政2~昭和10]は越前三国出身の三国家(在京都)の出身で、父は公家の鷹司家の儒官、三国大学です。1872(明5)年、京都の染呉服商の老舗である千切屋一門の本家・与三右衛門家の三代目の分家、西村総左衛門家の養子となり、その12代目当主となります。
 家業の染呉服刺繍物商としてビロード友禅を創案し、輸出にも力を注ぎました。その一方で、幕末・維新の激変で困窮にあえいでいた日本画家に友禅染の下絵を発注し、江戸末期から沈滞をきわめていた友禅染を活性化するとともに、日本画家の生活の安定にも寄与しました。それらの業績は高く評価されています。

■ 染呉服商のみならず他の業種にも参画指した 西村治兵衛
 西村治兵衛[にしむら・じへえ、1861~1910/文久1~明治43]は亀岡の矢田家の二男に生まれ、後に、京都の染呉服商の老舗、千切屋一門の本家である与三右衛門家の三代目の分家、西村治兵衛家の養子となり、その13代目当主となります。明治の大転換期にあって、家業の染呉服卸のほか鴨東銀行・商工貯金銀行の頭取、商工銀行の副頭取なども手がけました。名家と人望から、1901(明34)年に京都商業会議所の会頭に就任、死去する ’10(明43)年まで務めました。
 この間、海外視察を行い、日本の織物業のさらなる近代化、実業教育充実の必要性を痛感し、帰国後は啓蒙と実現に取り組みました。
 また、’08(明41)年の第10回総選挙に当選し、衆議院議員を1期、務めています(所属政党はなし)。

■ 地方のいしずえは地場産業にありと考え製糸業を興した 波多野鶴吉
 波多野鶴吉[はたの・つるきち、1858~1918/安政5~大正7]は、京都府何鹿(いかるが)郡綾部町(現 綾部市内)の豪農、羽室家に生まれ、幼児期に波多野家の養子となりました。長じて数学者をこころざし、京都に出たものの政治活動にのめりこみ、また、キリスト教の教えに共感して同志社で洗礼を受けるものの放蕩に明け暮れ、生活破綻者になってしまいます。失意のうちに綾部町に戻りますが、小学校の教員を務めるなかで人格を取り戻し、一念発起して’86(明19)年、何鹿郡蚕糸業組合の組合長に就きます。
 波多野は、日本が近代化に向けて疾走する中で地方が置き去りにされることを危惧し、地場産業振興によって地域を発展させるべきであると考え、地元丹波の主要産業であった養蚕・製糸の集約と品質向上を目指したのでした。当時、丹波地方産の生糸は質が悪く買い叩かれていたようで、その改善なくして地域の活性化、暮らしの向上は達成できないという訳です。
 そして ’96(明29)年には、何鹿郡蚕糸業組合を母体に製糸会社「郡是製糸」〈現 グンゼ〉の設立にこぎつけます。社名は、高品質の絹糸を生産し、世界に送り出すことが何鹿郡の進むべき道(郡是)であるとの信念を示したものです。設立にあたっては1株20円で地元の養蚕家から出資者を募りました。これは、創業資金を調達するだけでなく、むしろ、事業による利益を配当金として養蚕家にも分配することにより、地域の皆を豊かにすることを目指したのでした。
 同社の主事業は、農家が養蚕した繭(まゆ)を買い受け、生糸にして出荷することですが、何よりも大事にしたのが「精良優美」な糸づくりで、そのためには優れた養蚕法が必要です。そこで郡是製糸では、国内の先進産地から技術を導入するとともに、従業者教育に力を注いだことが記録に残っています。今話題のソーシャルビジネスの草分けといえます。
 郡是製糸株式会社の経営は生糸相場に揺さぶられますが、社会貢献という会社の大義を損なうことなく厳しい状況を乗り切り、今に引き継いでいます。事業拠点は、製品消費地の関係で綾部から神戸、大阪、東京へとシフトしていますが、会社の登記上の本社は今も綾部のままです。
                         (この項はシリーズ第8回の記述を引用)
                                      2014/04(マ)
                *次回は「民間企業の興隆と経済人の活躍(その7)」です。

 

【関連年表】

第17回を参照 

明治期、宇治茶業界は輸出に活路を見いだし、伊東熊夫らが先頭に立って欧米市場向けの味覚開発、品質向上に力を注いだ(写真は宇治田原町内の茶畑)


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