第6回 在来産業のイノベーション(その2)
《清水焼(京焼)》
京都は陶磁器原料に乏しく(とくに磁器原料は産出していません)、焼成のための燃料も得にくいので、決して焼きもの生産に適した地ではありません。それでも室町時代末期頃(16世紀)から、茶の湯の流行と普及を背景に、本格的な茶器(陶製=原料は粘を主成分とする陶土)が焼造されました。陶工は、すでに産地を形成していた美濃または瀬戸の出身者が多かったといわれます。江戸時代に入ると粟田口を中心とする東山山麓、北山、御室などに業者が集まり、それぞれの地名を冠した粟田口焼・八坂焼・五条坂清水焼・音羽焼・御菩薩池焼(みぞろがいけやき)・修学院焼などを供しました(それらを総称して「京焼」と呼ぶようになります)。そして相次ぐ名工の世出、成型・加工技術の革新で、京都の焼きものはしだいに名を高めます。
最初に名を挙げたのは丹波出身の野々村仁清(ののむら・にんせい、生没年不詳)です。仁清は御室・仁和寺の門前に開いた工房で、みやびで色彩豊かな“色絵もの”を作陶し、それまでの、中国・朝鮮製の焼きものを模した地味な色柄を特徴とする京焼の作風を変えてしまう程のインパクトを与えました。やや遅れて登場したのが尾形乾山(おがた・けんざん、1663~1743)です。乾山は鳴滝村(現在右京区)に窯を築き、兄の光琳(こうりん)が絵付けした器に乾山が書を寄せるという共同制作により、数々の名作を残しました。生き生きとした筆使いや構図の巧みさ、色彩感覚の絶妙さが特徴で、意匠化された梅や菊など独特の文様が多くみられます。それら仁清や乾山の作品は、主に貴族・大名・豪商らの富裕層が売り先でした。
江戸時代中期になって、ほとんどの窯元が清水・五条坂地区に集まり(その結果、清水焼が京焼の代名詞となりました)、しかも庶民にも手が届く比較的廉価な日常品の供給を始めたので、清水焼(京焼)の大衆化が進みます。そして、この清水・五条坂から、京都の焼きものに新たな波が起こります。本格的な磁器(主原料はカオリンなどの鉱物)の焼造です。これには、九州・有田の磁器生産の隆盛が大きく影響していますが、より直接的には、奥田頴川(おくだ・えいせん、1753~1811)という名工が京都における磁器製造技術を確立したことが独自の展開を可能にしました。
頴川は白磁の器に鮮やかな赤や緑で豪放な絵付けをした向付、皿、鉢、台鉢、火入れ、香合、香炉、水指、花生けなど多彩な作品で評判を取る一方、多くの優れた弟子も育てました。その中の一人、青木木米(あおき・もくべい、1767~1833)は、仁清や乾山とともに“京焼三名工”と讃えられるほどの芸術性の高い作品を数多く製作しました。
このように江戸時代の元禄期、文化文政期に隆昌を誇った京焼ですが、幕末から明治にかけて、動乱と“遷都”により、大きな打撃を受けます。とくに、貴族・大名・豪商ら有力顧客を失ったことで需要が一挙に低下します。その打開策として力を注いだのが洋式生産技術の導入と輸出振興でした。販路を海外に求めたのです。
たとえば三代目清水六兵衛(きよみず・ろくべえ、1822~83)と真葛長造(まくず・ちょうぞう、1796~1851)は横浜で石膏型使用の製法を修得し、1868(明治元)年、京焼に活用します。そして’72(明治5)年には六代目錦光山宗兵衛(きんこうざん・そうべえ、1823~84)が輸出品を試作し、神戸の外国商館で試売会を開くなど、海外進出のきっかけをつくりました。また、’73(明治6)年にはウィーン万国博覧会に京都の陶磁器を出品し、評価を高めます。これが弾みとなってヨーロッパからの技術導入と製品輸出が大きく進みます。さらに、’78(明治11)年に京都府の舎密局(せいみきょく)に招いたドイツ人技師、ゴッドフリート・ワグネルの指導により、釉薬(ゆうやく)の研究や焼成技法導入、透明な洋式七宝釉薬の実用化が取り組まれました。また、先駆的業者により、京都で最初のヨーロッパ式円窯を使った洋風陶磁器の生産や、大規模な工場生産も試みられました。
ただ、それら全てが好結果につながったわけではありません。輸出先のヨーロッパは競争も激しく、たとえば19世紀末にアールヌーヴォーの人気が高まると、芸術的に高い評価を獲得した清水焼(京焼)も需要が急減するといった浮沈を喫しています。そうした経験から、清水焼(京焼)はしだいに伝統的な高級品趣向に回帰し、技術的な卓越さを武器とする作家的な工芸品生産に傾斜していきます。
その一方、近代化の過程で清水焼(京焼)から理化学陶磁器や、新産業向けの新しい製品が生み出されます。
理化学陶磁器とは、主に硫酸や塩酸など工業薬品を貯蔵するための瓶(かめ)、蒸発皿、るつぼ、乳鉢などの理化学の実験用品などです。陶工の二代目入江道仙(いりえ・どうせん、生没年不明)は舎密局や勧業場に出入りしていたことから、それら器具の必要性を知り、禁裏ご用品納入から化学陶器製造に転進します。息子の三代目道仙1868~1946)はそれを発展させ、「道仙化学製陶所」を起こします。五条坂の陶器商だった二代目高山耕山(たかやま・こうざん、1822~1901)もまた、同じく化学陶器製造を手がけました。
こうした製品開発の試みは、他の分野でも生かされ、後に、電気の絶縁器具である碍子(がいし)や陶歯に着目した松風陶器(しょうふうとうき、現在の松風工業、松風陶歯に発展)などを生むことになります。戦後に誕生し、現在の京都を代表するメーカーとなった村田製作所や京セラも、清水焼(京焼)の近代化が土壌となって育ったと言っても過言ではないでしょう。
2013/02(マ)
【関連年表】
1605(慶長10) 「京焼」が歴史書に初めて登場
1638(寛永15) 粟田口焼の名前登場
1643(寛永20) 清水焼の名前登場
1648(天保5) 御室焼(仁清窯)の名称登場
1699(元禄12) 尾形乾山が二代仁清から陶技を伝授される
1782(天明2) 京焼の問屋販売組織である五条焼物仲間が結成される
天明年間 奥田穎川が最初の京焼磁器を開発
1870(明治3) 京都府が舎密局を開所
1878(明治11) 舎密局にワグネルが着任、化学校が開かれる
1883(明治16) 4月 同業組合設立
1887(明治20) 京都陶器会社設立
【参考資料】
▽京都市編『京都の歴史』第7巻・第8巻・第10巻(學藝書林)
▽CDI編『京都庶民生活史』(京都信用金庫)
▽京都商工会議所百年史編纂委員会編『京都経済の百年』(京都商工会議所)
▽森下愛子「近代の京焼から『伝統』を考える」(東京文化財研究所『無形文化遺産研究報告』第4号=平成22年3月)
▽木立雅朗「旧・道仙化学製陶所窯跡の発掘調査」
▽石川晃「もうひとつの京焼~高山耕山化学陶器(株)にみる京焼・化学陶磁器の黎明」
京都市東山区五条通東大路西入ルの若宮八幡宮前に立つ「清水焼発祥地碑」
五条坂は清水焼(京焼)の販売店が軒を並べ、“本場”の風情を伝えている
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