第2回 京都復興は人材育成から
明治維新で危機に瀕した京都を立て直すため、真っ先に着手したのが小学校の創設であったことは、いかにも京都らしいといえます。なぜなら江戸時代、京都は宮都といえども政治的機能をほとんど与えられず、もっぱら文芸を磨くことを幕府から求められたからです。この結果、京都がミヤコであり続けるためには“文化的権威”を高め、維持していかなければならず、そのためには、常に優れた才を発掘するとともに、彼らを支える技能者や商工業者を重層的に育てる必要がありました。公家や高級武士、知識人を相手に業を営んでいくためにも、そうした技能や知識が不可欠でした。ですから京都では、寺子屋や漢学・国学・洋学の私塾が発達し、石門心学(注参照)など町人学が興隆しました。商家の家訓の多くに「従業員の教育を怠るな」という意の一文が盛り込まれ、人材育成が当たり前のこととなりました。そのような背景から、幕末の災禍や遷都など、まさに京都存亡の危機を、小学校設立といった「人材育成」、「知恵」で乗り切ろうとしたのは、当然といえば当然のことだったのです。
さて、小学校の開設ですが、設立構想そのものは江戸時代末期に、市井から提案されていました。西谷淇水(にしたに・きすい)という寺子屋経営者(教育家)が1867(慶応3)年から翌年にかけて、奉行所と新政府に数回、官営教学所すなわち公立学校の設置を建白しています。淇水は、近ごろは勉強の必要を自覚せず何も学ばずに成長して身を持ち崩している者が多いが、これは本人の性質によるばかりでなく父母の幼児期の教育が行き届いていないからであると指摘したうえで、人たる者の大道をわきまえさせるには日常生活のなかで勉学に努力させなければならないと説き、その指導を教学所で、しかも経済的理由で勉強できない者も多数いることを考慮して月謝の要らない官営教学所を開設して行うべきだと訴えました。これを取り上げ、政策としたのが京都府でした。
淇水の建白書に注目した初代知事の長谷信篤(ながたに・のぶあつ)と、のちに二代目府知事となる槇村正直(まきむら・まさなお)は、寺子屋に代わる新しい教育施設(小学校)を町組(ちょうぐみ)ごとに創設する計画を立て、強力に推進しました。しかも、その施設は教育だけでなく町組会所としても使用し、費用は住民が負担するという案でした。
町組は、道路をはさんで形成された「町」が地域的に連合した自治組織で、16世紀ごろから拡大、発達してきた経過がありました。そのため戸数にばらつきがあり、当然のごとく小学校兼町組会所開設の費用負担に不満の声が上がりました。そこで京都府は、わざわざ町組を改正して戸数を平均化し、現在の三条通より北(上京と呼んだ)に33、同南(下京と呼んだ)も32に再編成しました(このとき再編した町組に番号を付して「上京第○番組」というように名付けました)。さらに、開設費用が賄えない町組には貸し付けまで行ったのです。
こうした政策と熱意が功を奏し、1869(明治2)年、上京第二十七番組小学校(のちに柳池=りゅうち=小学校)を皮切りに、65町組すべてに小学校兼町組会所が開設されたのです(原則として1町組に1小学校でしたが、諸事情から2町組で1小学校としたケースがあり、このとき誕生した番組小学校は64校でした)。これは日本で初めての学区制小学校で、明治政府の学校制度創設(1872(明5)年) に先んじること3年でした。
記録によると、開設当初の小学校は町組会所を兼ねていたので、校内に町役溜り、見廻り組(防犯)や火消し役(消防)の詰所なども設けられました。建物は町家を改築・改装したものが多かったのですが、新築したところは望火楼(火の見櫓)や、時報・急報のための太鼓場を設けました。
教科は、京都府作成の当時の「小学課業表」によると句読、暗誦、習字、算術の4科目で、それぞれに5等級を設け、試験に及第すると上級に進む(さらに高等な内容を学ぶ)仕組みでした。最上の1等ともなると、算術では平方根や積分、暗誦では英語・ドイツ語の単語を教えていたといいます。それらは、商売など営みのため、実学として教えられたのです。現在のような年齢・学年の意識はなく、できる子にはレベルをどんどん上げて教える方式だったことが分かります。
ところで、小学校は開設すれば事足れりではありませんでした。相応の維持費が必要です。それらも、もちろん町組が負担しなければなりませんでした。そこで、町組のすべての家から半年に1分ずつ平等に資金を徴収しました。これを竈別出金(かまどべつしゅつきん)、通称「竈金」といいます。そして町組によっては、竈金や寄付金を元手に貸し付けを行う小学校会社を設立しました。利子を学校運営資金に充てたわけです。こうした取り組みは小学校への期待の現れであり、町組の結束を強めることにも大いに役立ちました。
京都における教育=人材育成の取り組みは小学校創設にとどまりません。京都府は1872(明5)年、日本で最初の女学校となる「新英学校・女紅場(にょこうば)」を土手町丸太町の旧岩倉邸内に設立し、華道・裁縫・細工物・絵画・習字などの実用的技術と、英語・読書などの教養科目を教えました。英語は、いわゆるお雇い外国人の夫妻が教えています。「女紅場」の狙いは、女性の手に職を付けさせる勧業政策で、土手町丸太町のほかにも市中で多数が開設されます。「新英学校・女紅場」については、しだいに教育機能を高め、のちに府立第一高等女学校となり現在の府立鴨沂(おうき)高校に引き継がれています。
また、1879(明12)年には府立医学校を、1880(明13)年には日本で最初の府画学校を開学しています。医学校は現在の府立医科大学となり、画学校は京都市に引き継がれて現在の京都市立芸術大学美術学部となっています。
その間の1875(明8)年には私学の同志社英学校(現在の同志社大学)、1879(明12)年には西本願寺大教校(現在の龍谷大学)が開学しています。また、福沢諭吉の慶應義塾が京都府の誘致に応じて1874年(明7)年から約1年間、現在の京都府庁に京都校を開設したという記録もあります。
このようにして、京都の復興の礎となる人材の育成拠点が整備されていったのです。ここで育った人々が、京都ばかりか日本のその後の近代化をリードし、支えたことは言うまでもありません。
注) 石門心学=亀岡(京都府)出身で、京都に出て商家の番頭を務めた石田梅岩(1685~1744)が、儒教・仏教・神道をもとに独自に体系化した思想です。「商人道」を軸に、庶民の生き方を説いた町人の哲学(実践道徳)といえるでしょう。梅岩のいう商人道は、それぞれが質素・倹約・正直・勤勉を励行し、自分の本分を尽くせば商売はおのずから繁盛し、商売が繁盛すれば社会が繁栄するので、社会的貢献もできる…というものです。商売で得た利益は武士の禄と同じと説きました。そして正道の商法をもって富を蓄積し、その富を社会に還元することを奨励しました。儒教の陽明学が心学と呼ばれていたので、それと区別して石田流の道徳、すなわち石門心学と名付けられたようです。梅岩の著書は『都鄙問答(とひもんどう)』が有名です。
2012/10(マ)
関連年表
1869(明治2) | 1月 | 上下京の境を三条通に変更し、上京33・下京32番組設置(下京はのちに1番組を分割して33番組となる) |
5月 | 上京第27番組小学校開校(のちの柳池小学校)、同年中に市内64番組に各開校 | |
1870(明治3) | 12月 | 京都府中学校が開校(中学校の分科として独英仏語などを教える欧学舎も設けられる) |
1871(明治4) | 8月 | 京都府が日本で最初のカリキュラム「小学課業表」を制定 |
1872(明治5) | 4月 | 京都府が新英学校女紅場を開設 |
5月 | 市区改正により町組の呼称が番組から区に改められる | |
9月 | 文部省が「学制」公布 | |
1874(明治7) | 2月 | 慶應義塾京都分校を誘致(約1年間開設) |
1875(明治8) | 11月 | 同志社英学校(現 同志社大学)が開学 |
12月 | 日本初の幼稚園(幼稚遊嬉場)が京都・上京第30区(柳池)小学校内に開設 | |
1879(明治12) | 4月 | 京都府の「療病院」に医学院(現 府立医科大学)を開設 |
5月 | 西本願寺大教校(現 龍谷大学)が開学 | |
1880(明治13) | 7月 | 京都府画学校が開学(のちに 京都市立芸術大学美術学部) |
1889(明治22) | 8月 | 大阪から第三高等学校を京都に移転 |
1897(明治30) | 6月 | 京都帝国大学(理科大学)設立 |
1900(明治33) | 6月 | 京都法政学校(現 立命館大学)が開学 |
【参考資料】
▽京都市編『京都の歴史』第7巻・第8巻・第10巻(學藝書林)
▽CDI編『京都庶民生活史』(京都信用金庫)
▽京都市教育委員会・京都市学校歴史博物館編『京都・学校物語』
中京区御池通柳馬場東入北側に建てられた「日本最初小学校 柳池校」の記念碑
開智小学校の校舎を利用して開設した京都市学校歴史博物館(下京区御幸町通仏光寺下ル)
小学校統合によって廃校となった明倫小学校は2000(平成12)年から、若い芸術家たちの活動拠点・サポート拠点「京都市芸術センター」として活用されている(中京区室町通蛸薬師下ル)
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