第4回 知識と情報を商売の糧に
京都府の勧業政策の重要な柱の一つとして博覧会が企画され、日本で最も早く、1871(明治4)年から開催実行されました。
前回紹介したように、京都府は’70(明治3)年に発表した産業復興の基本方針、「京都府庶政大綱」に「商工業に関する海外の動向を知らしめ、人々の産業知識を向上させる」ことを挙げています。これに沿って京都府は、農工商業者への“業界指導”はもちろんのこと、一般庶民にも西洋諸国がいかにすぐれた工業製品をつくっているかを知らしめる必要があると考え、博覧会開催を考えたのでした。
さまざまな物品を集めて展示する博覧会(国内博)は1798年、フランス革命期のパリで始められました。回数を重ね、出展される物品、とくに新しい工業製品に人々の関心が集まるようになると、フランスだけでなく近隣国も開催するようになります。これを受けて、複数国が参加する国際博覧会(万国博)が提唱され、1851年に最初の国際博となったロンドン博が開催されます。当初は国際見本市的な性格が強かったようですが、しだいにブラッシュアップされ、娯楽的要素も加わると一般の関心も強まり、ブームにまでなります。そうした事情は日本にも伝わり、開国後の’67(慶応3)年には、第2回パリ万博に幕府と薩摩藩・佐賀藩が出展参加しています。こうしたことから明治初期、西洋事情に関心を持つ者には、博覧会なるものの存在と意義がすでに理解されていました。京都府も勧業政策の一環として、いち早く、これを採り入れたわけです。
京都における最初の博覧会は、当時の知事の長谷信篤(ながたに・のぶあつ)が、京都を本拠地にしていた三井家の三井八郎右衛門(当時 京都府御用達)、金融業の小野組の小野善助(同)、薫香商・鳩居堂の熊谷久右衛門(大年寄)の3人に話をもちかけ、主催させました。パイロット事業という位置づけで、会期は’71(明治4)年10月10日から11月11日までのほぼ1カ月、会場は今や国宝となっている西本願寺の書院でした。
このとき宣伝のための高札を、京都はもとより大阪・神戸・横浜などの14カ所に建て、次のように呼びかけました。「西洋では博覧会といって、新しく発明された機械や古代の器物などを陳列し、人々に知識を広め、また新しい機械には宣伝・販売の場にもなっている、たいへん有意義な会が開かれている。これに倣って京都でも博覧会を行う。西本願寺の書院に古今東西の珍しい物品を展示するので、大人も子供も見に来てほしい。きっと知識が深まり、目が肥え、世界の広さや歴史の重みを感じることができるであろう」(筆者の現代訳)
さすが京都きっての豪商が会主だけあって、知識と情報を商売の糧にしようという狙いがありありです。しかし、出品されたのは日本の武具・古銭・古陶器など166点、中国(清)の古銭・書画など131点、ヨーロッパからは汽車の模型・拳銃など39点で、「新しく発明された機械」は見当たらず、ほとんど骨董品展示会であったと伝えられています。それでも物珍しさからか1万人以上が押しかけ、入場料収入から経費を差し引いても利益が残りました。これが事実上、京都だけでなく日本における最初の博覧会となりました(東京で初の博覧会、文部省主催の湯島聖堂博覧会が開催されたのは’翌’72年でした)。
これに気をよくした3商人は、京都府にも諮り、博覧会を事業として行う「京都博覧会社」を設立。勧業という本来の目的に沿った博覧会を毎年1回行うこととし、その第1回を’72(明治5)年3月から5月まで、西本願寺・建仁寺・知恩院で開催します。出品点数は第1回の約4倍の2,400余りに増加、内容も大いに改善され、入場者は4万7700人にのぼりました。寺院ばかりを使用したのは、当時、他に適切な会場が見当たらなかったからでしょう。この時期、外国人が自由に京都へ入出することは認められていませんでしたが、博覧会に限って参加・見学できるようにもしています。そのための旅館も用意されました。
第1回京都博覧会には、出品物として農産物、薬品類、茶・菓子・タバコなどの飲食物と嗜好品類、水晶や石灰などの鉱物類、工芸細工物、呉服、武具、それに諸機械といったところが展示されたということです。諸機械では、たとえば足踏み式の米搗き機が見られます。
また、この第1回京都博覧会で、ヨーロッパの真似をして客寄せの娯楽(アトラクション)が企画されます。「付博覧会」と呼んで、知恩院の山門上で煎茶席、建仁寺などで抹茶席、祇園・宮川町などで芸妓による演舞、安井神社で能楽、鴨川べりで花火大会などを行いました。このうちの、祇園新橋の松の屋で行われた三世井上八千代振り付けによる舞踊公演は、お座敷舞の常識を打ち破り、集団による舞と、幕を降ろさずに背景を変えるだけで場面を転換する方法を編みだし、話題を呼びます。ちなみに同公演は、3月13日から5月末まで80日間(会期全日)、舞方32人・地方11人・囃子方10人の計53人が7組に分かれ、7日交替で出演したということです。これが、今に続く「都をどり」の始まりです。
第1回(事実上の2回目)の成功を受け、京都博覧会社は翌’72(明治6)年に御所と仙洞御所で第2回を開催し、物品展示のほか陶器製造と西陣織の実演販売、禽獣会(クジャク・七面鳥・ラクダ・野牛・クマなどを展示)も行いました。3回目から大宮御所も借用し、さらに規模を拡大します。そして’81(明治14)年には、御所の東南に約16,000坪の常設会場を設置するまでになります(資金は市民への割り当てにより調達)。この間、第3回(’73年)から輸入物の機械類を展示し、蒸気力で運転しています。第4回(’74年)では洋風影戯場なるもの(幻燈の上映館?)を設けています。
このように、京都における博覧会は、企画性、展示品、「付博覧会」を充実させながら、また常設会場も岡崎に移し、1928(昭和3)年までほぼ毎年続けられます(’97年(明治30)年から新設の博覧会館、1914(大正3)年以降は京都市勧業館で開催)。
京都における明治初期の博覧会は、それ自体が新しい産業を産みだしたわけではありませんが、京都府の勧業政策の進行状況を“見える化”し、「人々の産業知識を向上させ」るとともに、起業意欲を盛り上げるのに大きな役割を果たしました。
京都はかつて(名実ともにミヤコであったころ)日本随一の情報受発信地だったので、“知識”と“情報”とを生かして産業を充実・発展させました。近世後半(江戸時代後半)にはそうした機能が低下し、産業も後退しましたが、近代化という大きな時代の変化のなかで、博覧会を通して再び知識や情報の活用意欲を高めたことでしょう。また、博覧会は、京都人の“新しいもの好き”で“進取の気性に富む”性格(これも、日本随一の情報受発信地であったことから形成されたDNAと考えられます)を呼び覚まし、近代化推進のモチベーションを引き出したといえます。
ところで、京都博覧会開催で蓄えられたノウハウは、のちに、明治政府主催の内国勧業博覧会の開催誘致にも役立ちます。内国勧業博覧会は、産業の奨励と国民の啓蒙を目的に1877(明治10)年、東京・上野公園で第1回が開催されました。京都博覧会と同じ趣旨ながら、やはり国家版だけあって規模は大きく、出品点数も膨大でした。第2回(’81年)、第3回(’90年)も同じ上野公園で開かれますが、続く第4回は京都と大阪が激しい誘致合戦を繰り広げた結果、’95(明治28)年京都開催を勝ち取ります。平安遷都千百年紀念のメーンイベントにしたいという地元の熱烈な要望と、政府への強い働きかけが奏功したといえましょう。(大阪は1903(明治36)年に天王寺で第5回を開催、その跡地は天王寺公園および「新世界」となり通天閣も建設されました)
この第4回内国博覧会では、それまで水田とカブラ畑だった岡崎一帯を会場として整備し、工業館、農林館、器械館、水産館、美術館、動物館や各府県の売店、飲食店などが建てました。出品点数は16万9,000点と記録されています。会期4カ月の入場者は113万人を超えました。
第4回内国博覧会に合わせて、日本で始めての市街電車(チンチン電車)が開業・運行されます。ここに至って博覧会は、勧業政策から地域政策の手段に変転したと考えられます。市街電車を走らせることができたのは琵琶湖疎水と、その水を利用した発電所によるものですが、それらについては回を改めて触れます。
2012/12(マ)
【関連年表】
1871(明治4)10月 京都博覧会、西本願寺書院で開催
11月 京都博覧会社設立
1872(明治5)3月 第1回京都博覧会、西本願寺・建仁寺・知恩院で開催
1874(明治7)4月 第3回京都博覧会でジャガード機を展示
1878(明治11)5月 第7回京都博覧会で島津源蔵が軽気球を揚げる
1881(明治14) 御所内に博覧会常設会場完工
1882(明治15)3月 第11回京都博覧会を御所内の常設会場で開催
1884(明治17)3月 第13回京都博覧会で初めて電気燈を点灯
1895(明治28)1月 京都電気鉄道の塩小路東洞院-伏見町下油掛が開業(日本で初の市街電車)
3月 平安建都千百年紀念として平安神宮創建・鎮座祭
4月 岡崎で第4回内国勧業博覧会開会
1997(明治30)4月 京都博覧会創設25周年記念博覧会を岡崎に新設の博覧会館で開催
【参考資料】
▽京都市編『京都の歴史』第7巻・第8巻・第10巻(學藝書林)
▽CDI編『京都庶民生活史』(京都信用金庫)
▽京都商工会議所百年史編纂委員会編『京都経済の百年』(京都商工会議所)
▽倉知典弘:京都における勧業政策の展開(京都大学生涯教育学/図書館情報学研究vol.7.2008)
1871(明治4)年、最初の京都博覧会の会場となった西本願寺書院
「都をどり」は1871(明治4)年、京都博覧会のアトラクションとして誕生しました。
京都市左京区の岡崎一帯は、1895(明治28)の第4回内国勧業博覧会の会場となり、その跡地には文化施設などが整備されました。
過去の記事
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