京都再発見

京都・近代化の軌跡  近代的産業活動の本格化
京都・近代化の軌跡

第8回 近代的産業活動の本格化

ベンチャービジネスの草分けも


 京都の復興、とりわけ産業の立て直し(=近代化)が、京都府の積極的な政策展開によって進んだことはご承知のとおりです。主な産業振興策として、▽洋式技術の導入(拠点となったのが舎密局)、▽在来業界の高度化(織殿と染殿の開所、製革場の設立、焼きものの釉薬研究や新たな焼成技法導入など)、▽新規産業の創出(鉄具製工場の開所、洋紙の製造の起業ほか)、▽新たな集客の場づくり(新京極の建設)などが取り組まれました。しかし、それらはあくまでも既存の商工業のてこ入れ、または新規産業として離陸させることを目標としたので、振興策の成否は先進的な事業家の現出や、新たな産業に挑む人材の輩出にかかっていました。

  そのような京都府の期待を見事に実現する人物が登場します。理化学機器や精密機械装置製造業を起こし、現在の株式会社島津製作所を創業した島津源蔵(初代、1839~94)です。後を継いだ長男の二代目源蔵(幼名梅治郎、1869~1951)も、感応起電機(教育用発電装置)の自作、X線写真撮影装置や高性能電池の開発・実用化などかずかずの業績を上げました。

 初代源蔵は三具足(みつぐそく)を製造していた生家から幕末の頃に分家・独立し、木屋町二条で同業を営みます。三具足とは仏壇に供える香炉・花瓶(けびょう)・燭台です。しかし、明治維新後、廃仏毀釈令により仏具の注文が急減、他に職を求めざるをえなくなります。そんなとき、店とは目と鼻の先に、西洋科学と技術の啓蒙・普及センターとなる舎密局が開設されます(1870(明3)年)。付属のモデル工場も周辺に続々と設立されます。中をのぞくと、初めて見る外国製の機械や装置が並び、初めて見る製品が作り出されている…。初代源蔵は心を奪われたことでしょう。やがて舎密局で理化学の講座を受講し、実験への参加を重ね、熱心に知識を吸収しているうちに、店が木屋町二条にあるという地の利も幸いして、舎密局そのほかの施設から備え付けの外国製器械や装置の修理、整備、さらには模作も依頼されるようになります。

 それらを通じて装置の原理や機械の構造を体得した初代源蔵は、「日本は科学の国にならなければならない。そのためには広く理化学教育が必要だ。自分が理化器械を作り、教育普及の役に立とう」と’75(明8)年、理化器械製作を主業務とする“西洋鍛冶屋”を創業します。島津製作所のはじまりです。

 外国製品の模作から始めた初代源蔵でしたが、持ち前の創意工夫力(今でいう研究・開発力)はすぐに認められます。1877(明10)年、科学思想啓発のために京都府が計画した国内初の有人気球を見事に成功させたからです。気球の原理は分かっているものの、封入する水素ガスや気密性を要する気球本体は誰も作ったことがなかったので、材料の選定も含め、一からの取り組みでした。初代源蔵は鉄くずに硫酸をかけて水素ガスを発生させ、ガス球部分は試行錯誤の結果、胡麻油で溶かした樹脂ゴムを塗布した羽二重(はぶたえ)を用いて製作しました。同年12月6日に、仙洞御所の広場で行われた飛行試験では36mまで浮上したということです。「島津源蔵」の名声はそれ以上に上がりました。

 二代目源蔵は、初代が1894(明27)年に急逝したため、25歳で後を継いだのですが、幼少時から洋書による独学で技術的才能を磨き、16歳のときに感応起電機(教育用発電装置)を完成、翌年には都をどりで初めて電灯を点け、18歳から父に代わって京都師範学校(現京都教育大学)金工科教師を務めるなど名を馳せていました。島津製作所の責任者となってからは第三高等学校教授・村岡範為馳に協力してX線写真の撮影に成功(1896(明29)年)します。ドイツでW.C.レントゲンがX線を発見してからわずか10カ月後だったということです。そして、その撮影装置や電源(蓄電池)の製造に着手します。蓄電池の改良工夫には生涯取り組み、大きな成果を上げています(島津製作所製蓄電池は「GS蓄電池」のブランドで売り出していますが、これは島津源蔵のイニシャルを取ったものです。後に電池製造事業を分離して設立したのが日本電池株式会社〈現 株式会社ジーエス・ユアサコーポレーション〉です)。

 このようにして、源蔵父子は研究開発型事業、いわゆるベンチャービジネスの草分けとなり、その技術的成果と事業活力をもって京都の精密機械・電機電子業界の基盤づくりに大きな貢献をしたのでした。

  在来業界の高度化に取り組んだ事業家として、ここでは西陣織物の改良と新製品開発、海外への販路拡張の先駆者となった川島織物の二代目川島甚兵衛(1853~1910)を紹介します。

 二代目甚兵衛は、1843(天保14)年創業の呉服悉皆業(ごふくしっかいぎょう=着物の総合サービス業)上田屋に生まれましたが、子どもの頃から織物図案・製法などに興味を示し、美術織物の製作に没頭します。1879(明12)年に家業を継ぎますが、機業家への志絶ちがたく’84(明17)年に川島織物工場を設立し、丹後ちりめんなどの織法改良や、唐錦や綴織(つづれおり)の模様織の製作改善に取り組みました。’86(明19)年、日本の美術織物の紹介と外国美術織物の研究を兼ねてヨーロッパに渡り、フランスでゴブラン織を研究。その特徴を綴織に採用して綴織製美術織物の大作を次々と製作しました。このように、二代目甚兵衛は西陣織の芸術的価値をいっそう高め、川島織物工場(後に株式会社川島織物、現 株式会社川島織物セルコン)はその先進を行きます。現在も劇場の緞帳(どんちょう)製作では屈指の企業です。

  ところで、近代的産業活動を担う事業組織として、京都で株式会社の設立が本格化したのは明治も中期に入った20年頃からです。資料によると’86(明19)年に山城製茶、’87(明20)年には麦酒末広(ビールの醸造・販売)、京都綿糸織物(洋服地製造)、京都柳池織物(生糸のかすり糸を用いた洋服地製造)、京都洋服(洋服製造)、西陣機業(ネル織および絹綿毛の織物製造)、第一砂糖(砂糖販売)、京都織物(織染撚糸(ねんし)・製理)、京都陶器(輸出向け陶器製造)といった工業系の株式会社が続々と創立されています。続いて輸出を扱う貿易会社や新興商業会社も設立されています。その勢いは、他の都市・地域と比べると群を抜いたものでした。

 当時、いわゆる京都策はすでに第1期(1811(明4)~81(明14)年)を終え、復興のリード役を果たした舎密局や織殿・染殿など付属の模範工場も民間に払い下げられていました。続く第2期(~95(明28)年)も佳境となり、メーン事業の疎水建設は工事の真っ最中でした(着工1885(明18)年、完工’90(明23)年)。“資本主義の先導役”とされる鉄道は、すでに1879(明12)年に京都~神戸が、翌’80(明13)年には京都~大津も開業していました。この間、激しいインフレやデフレに翻弄されながらも産業は近代化の歩を進め、事業会社による活動がようやく本格化に至りました。

  最後に、この時期に設立された(実際には“この時期”よりも少し後の1896(明29)年ですが…)企業として、京都府綾部発祥の郡是製糸(ぐんぜせいし)株式会社(現 グンゼ株式会社)を取り上げます。

 同社は、京都府何鹿(いかるが)郡綾部町(現綾部市)出身の波多野鶴吉(1858~1918)によって、製糸会社として設立されました。農家が養蚕した繭(まゆ)を買い受け、生糸にして出荷するのです。日本が近代化に向けて疾走する中で、地方が置き去りにされることを危惧した波多野は、地域発展の元は地場産業振興にありと考え、地元丹波の主要産業であった養蚕を活性化させるべく製糸業の起業(会社設立)を決意したのでした。これを何鹿郡の進むべき道(基本方針)、すなわち郡是と確信し、そのまま会社の名称としました(ちなみに、国の進むべき道を定めたものが国是、企業の進むべき道を定めたものが社是です)。地域社会への貢献を会社(事業活動)の大義とした訳です。そして、広く賛同者を得るべく1株20円で地元の養蚕家から出資者を募りました。これは、創業資金を調達するだけでなく、むしろ、事業による利益を配当金として養蚕家にも分配することにより、地域の皆を豊かにすることを目指したのでした。

 当時、丹波地方で産した生糸は質が悪く買い叩かれていたようです。品質を向上させ「精良優美」な糸をつくるためには優れた養蚕法と製糸法が必要です。人材育成も重要です。そこで郡是製糸では、国内の先進産地から技術を導入するとともに、従業者教育に力を注いだことが記録に残っています。今話題のソーシャルビジネスの草分けといえます。

 郡是製糸株式会社の経営は生糸相場に揺さぶられますが、社会貢献という会社の大義を損なうことなく厳しい状況を乗り切り、今に引き継いでいます。事業拠点は、製品消費地の関係で綾部から神戸・大阪・東京へとシフトしていますが、会社の登記上の本社は今も綾部のままです。こうしたこだわりからも、同社は京都企業といえます。

2013/04(マ) 

【参考資料】

▽京都市編『京都の歴史』第8巻・第10巻(學藝書林)
▽京都商工会議所百年史編纂委員会編『京都経済の百年』(京都商工会議所)
▽島津製作所編『島津製作所の歩み 科学とともに100年』(島津製作所)

島津製作所創業の地である木屋町二条に建つ島津製作所創業記念資料館

明治15年6 月に発行された島津製作所の製品目録『理化器械目録表』(複製から)

二代目島津源蔵が製品化したウイムシャースト感応起電機(右)と排気機(学校歴史博物館にて)


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