京都再発見

京都・近代化の軌跡  民間企業の興隆と経済人の活躍(その4)
京都・近代化の軌跡

第16回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その4)


 前回まで、京都経済の近代化(資本主義化)の様相を、民間企業(とくに株式会社)の設立状況を通して見てきました。今回から、この時期に活躍した代表的な京都の経済人(実業家)を取り上げ、その活動面から産業・経済の近代化(資本主義化)をたどってみましょう。〈 “人物編”は今回から5回の予定です〉
 まず取り上げるのは、京都の経済復興・産業振興が民間を主体に本格化する明治中頃から多数の事業に取り組み、かつ黎明期の京都財界を組織した浜岡光哲、田中源太郎、中村栄助、雨森菊太郎、大沢善助ら“重鎮”たちです。が、その前に、それらの人材を育成した山本覚馬と、京都府の勧業政策実行の先頭に立った明石博高を紹介します。

■ 政界・経済界の指導者となった 山本覚馬
 山本覚馬[やまもと・かくま、1828~1892/文政11~明治25]は、このシリーズの第1回(プロローグ)で触れたように会津藩の砲術士の家に生まれ、一時期、江戸で蘭学を学びました。1864(元1)年、会津藩主の松平容保[まつだいら・かたもり、1836~1893/天保6~明治26]が治安悪化著しい京都の警備責任者(京都守護職)に任じられたので、これに従い上洛、駐留します。大政奉還後、戊辰戦争に巻き込まれ鳥羽・伏見の戦いに従軍しますが、敵方の薩摩軍に捉えられてしまいます(’68(慶応4)年)。そして、同藩京都邸幽閉中に著した(ほとんど失明していたので口述筆記をさせたといわれています)のが、新しい国づくりの指針を連ねた提言書、『管見』(かんけん、管からのぞいた程度の小さな考え方ですが…とのへりくだり表現)でした。同書は薩摩藩上層部に読まれ、評判になります。
 山本は、薩摩藩邸釈放後も京都にとどまり、’70(明3)年、識見の高さを買われて京都府の顧問に就任。大参事・槇村正直[まきむら・まさなお、後に知事、1834~1896/天保5~明治29]のブレーンとなって、勧業、教育、衛生など多方面で京都近代のための化政策づくりに携わります。政策だけでなく、’72(明5)年の第1回京都博覧会では実際に企画にも参画し、外国人に京都の魅力と産品のすばらしさを知らしめるための英文のパンフレットを自ら制作しています。『管見』に示した諸案で、京都に適用できる事項を実践したのです。
 それら公的活動のかたわら、河原町御池下ル(下丸屋町)の自宅に私塾を開き、欧米諸国の政治・経済・社会の大勢や近代日本のあるべき姿について、理念や政策を熱心に説きます。講義には槇村や、後に滋賀県令(知事職)・東京府知事となる松田道之らの官吏、そして日本の激変に戸惑いつつも新たな可能性に期待を高める民間人、とりわけ向学心のある若者が詰めかけました。その中に加わっていたのが浜岡光哲、田中源太郎、中村栄助、雨森菊太郎、大沢善助ら、明治の京都経済界を背負うことになる面々でした。これは決して偶然ではなく、山本の人格・識見・先見性・政策力が優れ、魅力に満ちていたからこそ俊英が集まったのに違いありません。
 ところで山本と槇村とは、しだいにしっくりいかなくなります。槇村の強権的な振る舞いと、山本の同志社=キリスト教への強い肩入れが互いの溝を広げたようで、’77(明10)年頃に京都府顧問を“解任”されてしまいます。ところが皮肉なことに、山本は’79(明12)年に行われた初の府議会議員選挙で上京区(この頃の上京区は三条以北)からトップで選出され、さらに議会で初代京都府議会議長に選出されます。この頃の議員選挙は、選挙人・被選挙人ともに一定額以上の地租納付など条件を満たしている満25歳以上の男性に限られ、しかも被選挙人は立候補制ではなく、選挙人が自主的に投票で選ぶ方式でしたが、それでも多くの市民が山本に強い信頼を寄せていたことは容易に想像できます。府議会では、議長として時に槇村知事の行き過ぎを諫め、山本の真骨頂を発揮しています。
 さらに、経済界においても’85(明18)年、短期間の在任ながら京都商工会議所の第二代会長に就任し、松方デフレの影響による不況が深刻化していた京都の商工業の支援に心を砕いています。山本は『管見』で、国づくりの基盤を“商”とし、旧習にとらわれず人々が自由に才能を発揮できる諸制度、“鉄”の活用と洋式製鉄技術の導入、同業者の結束と不測の事態に備える損害補償制度の創設などを提案していますが、京都商工会議所会長として、それらの実現に思いを馳せたことでしょう。
 山本が新島襄[にいじま・じょう、1843~1890/天保14~明治23]を支援し、同志社設立に参画したことは先にも挙げましたが、山本と新島の影響は門人にも及び、多くの同志社大学設立・運営の協力者を輩出しています。

■ 産業近代化政策を推進した 明石博高
 明石博高[あかし・ひろあきら、1839~1910/天保10~明治43]についても、このシリーズの第1回(プロローグ)で触れましたが、京都に舎密局(せいみきょく=理化学講習所)の開設を京都府に進言し、’70(明3)年にこれが通ると槇村の要請で舎密局主任に就任。さらには府の勧業課長となって、山本覚馬と二人三脚で政策立案、実行に腕を振るいました。
 明石は四条堀川西入ルの薬種商の家に生まれ、幼い頃から儒教・仏教・国学・西洋医学・物理学・化学などを学び、早くから民間医師らと医学研究会、薬学・化学研究会などを開いています。明治維新後、大阪の舎密局(せいみきょく=理化学講習所)に勤めた経験から、京都にも舎密局を開設することを強く説き、府を動かしたのでした。
 府の勧業課長に就いてからは、産業振興のため西洋技術を導入した、製革場、金属加工を行う「伏水製作所」、新しい染織技術を講習し製品化する「織殿」と「染殿」、陶磁器釉薬研究、洋紙製造所、麦酒(ビール)造醸所など各種の府営事業場を開設しています。これらを通して多くの門下生を育て、多方面で京都の近代化に尽力したのでした。
 ただ、それら手塩に掛けた府営事業も、’81(明14)年に北垣国道[きたがき・くにみち、1836~1916/天保7~大正5)]知事の方針で民営化(払い下げ)されることになり、明石自身、舎密局、染殿、伏水製作所の払い下げを受けました(支払いは長期分割)。しかし採算がとれず、いずれも経営不振に陥り、事業から手を引かざるを得ませんでした。経済活動の一線から身を引いた後は医者に戻りましたが、近代化を先導した功績は多大です。

 さて、ここから京都経済界の“重鎮”の面々の略歴と活動を見ていきます。
■ 言論界を振り出しに幅広く活躍した 浜岡光哲
 浜岡光哲[はまおか・こうてつ(みつあき)、1853~1936/嘉永6~昭和11]は大覚寺坊官という格の家に生まれましたが、幼くして浜岡家に養子として入りました。次に紹介する田中源太郎とは従兄弟の間柄です。長じて山本覚馬に師事し、教えを受けました。そして1879(明12)年、言論人をこころざし、’79(明12)年、商報会社を設立して『京都商事迅報』を発刊し、続いて’81(明14)年には『京都新報』を創刊します。『京都新報』は論説を看板とする、京都初の本格的政論新聞でした。この時期、日本国内は国会開設や憲法制定をめぐって政治勢力および世論が割れ、騒然としており(自由民権運動の第2期)、浜岡もこれに参入しようとしたのです。
 その後、『京都新報』は読者層の広がりと世情の変化に対応し、『京都滋賀新報』、『中外電報』と改題し、また、言論弾圧を受けた際に身代わりとする『日出新聞』も、あらかじめ創刊しました。ところが、その身代わり紙の人気が上昇し、他をしのぐようになったため、『中外電報』を『日出新聞』に統合するとともに、全国二十数カ所に通信員を委嘱配置し、通信網の拡張と誌面充実に努めました。以後、『日出新聞』は昭和の太平洋戦争のさなかまで京都を代表する新聞として名を馳せます(『京都新聞』史は『京都商事迅報』を源流として表示しています)。
 浜岡は、新聞社を経営する一方で、他分野の京都商工銀行、京都織物、京都陶器、関西鉄道、京都倉庫、関西貿易、北海道製麻、京都ホテルなどの会社設立、経営にも参画しました。なかでも鉄道事業に熱心で、京都電気鉄道、直江津鉄道、京都鉄道に関係しています。
 こうした事業活動を背景に、’82(明15)年の京都商工会議所発足に際して初代副会長に就任、’85(明18)年から第三代会長(山本覚馬の後任)、’91(明24)年に京都商工会議所が京都商業会議所に改組されてからも引き続き会頭を務めました。会長・会頭在任は、1928(昭3)年まで通算2期・33年にわたります。期間中、平安遷都1100年紀念協賛会を経済界代表として率いたことは大きな業績です。
 ただ、織物や陶磁器など京都の特産品を輸出する目的で設立し、浜岡が社長を務めていた関西貿易が、1901(明34)年5月に世界的な不況と金融恐慌のあおりで経営破綻した際は、経済的に、また立場上も大きな痛手を被りました。しかし、それも見事に切り抜け、以後も活躍を続けました。
 経済活動の一方で京都府議会議員、京都市議会議員に選出され、さらに1890(明23)年の第1回衆議院議員総選挙にも出馬(京都1区=上京区) して当選し、京都選出議員第一号となっています。衆院議員は通算3期(第1回、第10回補欠、第11回)務めました。
 山本覚馬同様に、京都の教育機関の設立にも積極的に関与し、私立独逸学校(現在の京都薬科大学)の第二代理事長に就任したほか、同志社大学設立発起人や京都法政学校(立命館大学の前身)の設立賛助員にも名を連ねています。

■ 京都・舞鶴間の鉄道建設に情熱を傾けた 田中源太郎
 田中源太郎[たなか・げんたろう、1853~1922/嘉永6~大正11]は亀岡の大地主、田中家に生まれ、’68(明1)年、15歳で家督を相続しました。浜岡光哲とは同い年の従兄弟という間柄です。’71(明4)年、勉学のため京都に出ますが、このとき山本覚馬の門下生となり、もっぱら政治・経済を学びました。その後、帰郷し、地元の戸長(村長)となって地租改正、学校創設、植林砂防工事などに取り組み、信頼を集めました。その実績により、’80(明13)年、京都府議会議員に当選し、’90(明23)年まで府政に参画しています。’90年からは衆議院議員として、浜岡とともに国政の場で活動しました。総選挙には第1回から第3回まで当選し(いずれも京都5区=北桑田郡・南桑田郡・船井郡など)、通算3期務めました。
 府議時代、琵琶湖疎水建設、府下の河川・道路改修、鉄道敷設などインフラ整備に熱心に取り組みました。とくに、京都 ― 舞鶴間を鉄路でつなぐことを悲願とし、国への働きかけを重ねて事業免許を取得、’93(明26)年に鉄道会社「京都鉄道」を設立(社長に就任)します。しかし、保津峡付近の難工事のため開通が遅れ、1900(明33)年にようやく京都 ― 園部間を開業した段階で資金が枯渇。そのうえ国の方針変更もあって、園部以北は政府の直営事業として建設が続行されました。京都 ― 園部間を営業していた京都鉄道も、鉄道国有化に伴い’06(明39)年、国に買収されました。
 それでも、この事業で田中は経済人としても名を馳せ、京都株式取引所(後の京都証券取引所)、亀岡銀行〈現在の京都銀行の前身の一つ〉、京都商工銀行、京都電燈など多数の会社の設立、経営に参画しています。
 京都の教育に関しては、京都法政学校(立命館大学の前身)の設立賛助員となっています。
 田中は1922(大11)年4月3日、京都鉄道国有化後の山陰本線に園部で乗車し、京都に向かっていたところ、清滝付近の保津川橋梁で列車が脱線、保津川へ転落するという痛ましい事故で亡くなっています(ただし、遺体の発見が遅れたため、死因に異説もあります)。

■ 油問屋から身を起こし経済界の指導者となった 中村栄助
 中村栄助[なかむら・えいすけ、1849~1938/嘉永2~昭和13]は京都の商家、河内屋に生まれました。河内屋は栄助の父(初代栄助)が酒造業の中村屋(姓は高山)から分家し、興した店で、菜種油の卸を主な業務としていました。独立に際し、名字を本家の屋号にちなみ“中村”としたといいます。当時の商家の子弟教育は、いわゆる寺子屋で読み書き算盤を習い(それとて水準は決して低くありませんでした)、後は自店でOJTというのが一般的で、中村も型どおりに育てられます。22歳の ’71(明4)年、父の死去に伴い家業を継いでからは商才を発揮し、灯火用の菜種油の需要が先細りすると見るや石油の輸入と卸売りにウエートを移し、また、鰹節や質にも業を広げました(最終的には鰹節商を専業とします)。
 石油輸入などで外国商人と接するようになり、欧米における“商売”の考え方や流儀に興味をもったことから、その文明的基盤、精神的支柱となっているキリスト教に関心を寄せ、それが縁で牧師の新島襄(同志社創立者)、その義兄・山本覚馬の知己を得、山本の門下にも入ったのでした。後に受洗もしています。
 京都の有力商人と目されるようになった中村は、’82(明15)年、京都商工会議所の創立に加わり、’85(明18)年副会長=このときの会長は浜岡光哲=、’91(明24)年に京都商工会議所が京都商業会議所に改組されてからも引き続き副会頭(~1903(明36)年)を務めました。その間、関西貿易、京都電燈の設立に携わり、京都倉庫や鴨東銀行、京都鉄道、京都電鉄、京福電鉄、伏見銀行、都ホテルなど数多の企業の経営にも参画しています。そのほか米穀取引所の理事も兼ねました。
 一方、’81(明14)年には推されて京都府議会議員、’89(明22)年に京都市制が施行されると市議会議員となり、初代議長を務めました。この間、議員として、また経済人として琵琶湖疏水建設工事の推進役を担っています。さらに、’90(明23)年の第1回衆議院議員総選挙にも出馬(京都2区=下京区)して当選し、政界でも活躍しました。衆院議員は通算2期(第1回、第6回)務めました。
 京都の教育に関しては、中村は新島襄の熱烈な信奉者であったことから、頼まれて ’83(明16)年に同志社社員(理事)に就任します。そして終生、その役を務め、大学経営を支えました。
 なお、中村の三男は、京都市長を戦後3期(1950~’66)務めた高山義三(たかやま・よしぞう、1892~1974)です。
                       *雨森菊太郎、大沢善助らは次回に紹介します。
                                    2014/02(マ)

 

 

山本覚馬が私塾を開いた自宅は河原町御池交差点南西角の歩道部分(写真の正面ビル前) にあった。元は河原御池を少し下がった位置だったが、太平洋戦争に伴う防火措置で家屋を取り壊し、御池通りを拡幅しため、現在は歩道部分となってしまった。

交差点南西角のビル前には「北隣 明治時代 山本覚馬・八重邸宅跡」の案内石柱が建てられている。


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