京都再発見

京都・近代化の軌跡  在来産業のイノベーション(その1)
京都・近代化の軌跡

第5回 在来産業のイノベーション(その1)

~ 洋式製法導入で危機を突破した西陣織


 西陣織と清水焼(京焼)―。衣食住の変容による需要低迷に悩んでいますが、今も京都の“看板産業”であることに変わりありません。どちらも由緒ある業界だけに、苦境もこれまでに一度や二度ではなく、幕末から明治にかけても大きな困難に遭遇しました。これを“近代化”で乗り切ったわけですが、その背景には京都府による在来産業再興策と、各業界の自助努力がありました。

《西陣織》
 京都における高級織物の起源は平安時代、朝廷の工房「織部司(おりべのつかさ)」にさかのぼります。儀式や貴族のための装束、装飾織物などを製作していましたが、律令体制の崩壊で朝廷が工房を維持できなくなり、技術者と技術が町に広がったのです(それでも需要家が貴族や地方豪族であったことに変わりはありません)。下って室町時代、京都は応仁の乱で灰燼と帰し、織物をはじめとする各種産業と従事者は地方へ疎開しますが、戦乱が収まると再び京都に戻る動きが強まりました。このとき高級織物業者が集まった地区が、西軍の山名宗全軍が本陣を構えた所であったため、その地で生産される高級織物を「西陣織」と呼ぶようになったということです。

 西陣織の黄金時代は江戸期でした。堺を経て中国(明)から高度な織物技術が導入され、一段と高級精妙な製品がつくられるようになっていたこと、そして世の中が安定し、経済活動も活発化したことから、需要が朝廷・貴族だけでなく富裕な武士・町人にも広がったことが大きな要因です。
 しかし1730(享保15)年6月、西陣全域を焼き尽くすほどの大火(のちに「西陣焼け」と呼ばれます)に見舞われ、業界は壊滅的な打撃を受けます。命からがら逃げ出した織元・織工の多くは地方の産地(たとえば丹後・長浜・桐生・足利など)に移らざるをえませんでした。一方、受け入れ地にとっては高度な技術を取り込む好機となり、せっせと高級織物の開発と生産に励みます。そのため、西陣織業界は生産設備の喪失だけでなく、新たな産地の台頭、市場の変化というダブルパンチ、トリプルパンチに見舞われることになります。「西陣焼け」を境に西陣織業界は衰退を始めます。
 その後も西陣織業界は、1788(天明8)年に再び大火に遭い、また天保の改革による株仲間の解散・絹織物禁止令を受けるなど、災難が続きました。

 ですから幕末には、西陣織業界はすでにへとへとになっていました。そこへ“遷都”です。天皇と一緒に貴族や富裕層が東上したので主要ユーザーを失いました。また、生糸の輸出増加で国内相場が上昇したため、泣き面に蜂とも言える打撃を被りました。この惨状に、京都復興、とりわけ産業のテコ入れを第一に掲げた京都府が手を打ちます。
 まず、1869(明治2)年に「西陣物産引立会社」を設立します。そして、すべての染織業者を部門別会社に属させ、経営指導・資金貸与を行うとともに、原料の共同購入、東京や大阪での販売活動、流通の合理化などに取り組みました。
 次に、’72(明治5)年には洋式の織物技術の習得・導入のため、佐倉常七(さくら・つねしち、1835~99)・井上伊兵衛(いのうえ・いへえ、1821~81)・吉田忠七(よしだ・ちゅうしち、?~1874)をフランスの一大絹織物産地、リヨンに派遣します。この時期、西洋からの技術導入は、海外から技術者を日本に招き、講習および試作をしてもらうのが通例ですが、西陣織に関しては現地に派遣、留学させたのです。これは、京都博覧会を見物した外国人たちの進言を受け入れた結果といわれています。
 当時、フランスの絹織物産業は、図案情報を入れたパンチカード(紋紙)を使って効率的に織り糸を操作するジャカード(紋織装置)や、タテ糸にヨコ糸を通す際に杼(ひ)を飛ばして効率的に織り上げるバッタン(飛杼装置)を駆使し、隆盛を築いていました。3人は驚くべきスピードでそれら織物技術をトータル的に習得します。そして、ジャカード、バッタン、ベゲヨー(金おさ)、ナベツ(杼)、デッサン・メッケー(紋彫器) などの織物機器、合わせて数十台を購入し、帰国しました(ただし、佐倉・井上に後れて帰国した吉田は、乗船した船が伊豆沖で沈没し、死去しました)。
 そして京都府は、伝習生が持ち帰った技術や機器類などをもとに、’74(明治7)年、勧業場(かんぎょうば)の中に教習所兼モデル工場(織工場、その後織殿(おりどの)に改称)を開設し、生産技術の普及に努めます。京都府下だけでなく他産地からも受講者を募り、佐倉・井上の両人を教授として講習を行いました。
 ジャカードとバッタンを搭載した織機は、人手によってタテ糸にヨコ糸を操作するそれまでからの空引機(そらびきばた)に比べ、4倍以上の生産効率を実現したといいます。しかし、それら装置は高価で、簡単に輸入することができません。
 この問題を突破したのが、織工場の受講者だった西陣の機大工(はただいく)、荒木小平(あらき・こへい、1843~?)でした。荒木はフランス製品を見て、これを自分で作ることを思い立ち、苦労の末、’77(明治10)年に木製によるジャカード模造機を完成させます。かくして西陣における洋式織機導入の機運は高まりますが、だからといって、すぐに普及したわけではありませんでした。というのは、洋式織機を導入するためには、それに応じた生産システムを組まなければならず、旧来の分業体制(とくに準備工程)の組み替えに時間を要したからです。
 さらに他方で、業界の体質改善が進まなかったため粗製乱造が広がり、西陣織の評判がむしろ悪化していたことも影響しました。そこで京都府は ’77(明治10)年、品質検査を行う「西陣織物会所」を設け、合格証を添付していない製品の販売を禁止しました。また、織工や仲買人には免許鑑札を発行し、無鑑札の業者を閉め出すなどの対策を講じました。
 これらにより、明治20年代に至って西陣織は高級織物としての評価を取り戻すとともに、洋式織機も急ピッチで広がります。30年代には一般織物のほとんどをジャカード機で製造するようになり、高い品質と生産性、京都ならではの文様という付加価値で、幕末以来の危機を脱出したのでした。40年代には織機約2万台、生産額は2000万円余り(全国織物総生産額の約7%)にまで伸長します。

 なお、西陣織とならんで京都の代表的な繊維産業であった友禅染も、遷都で貴族や富裕層の主要ユーザーを失います。一方で、明治初年に化学染料(人造染料)の輸入が始まり、その活用によって新たな製品が生みだされます。1879(明治12)年頃、友禅染職人の広瀬治助(ひろせ・じすけ、1822~90)が開発した型友禅(写し友禅)です。これは、化学染料を混ぜた色糊を型紙に沿って生地に摺り込み、蒸して染料を定着させる(その後、水洗いをして糊を落とす)技法です。手描きに比べて大幅な量産が可能となり、友禅染製品の大衆化、市場拡大につながりました。それら、化学染料の利用について指導的役割を果たしたのは、’75(明治8)年に舎密局内に設置された染殿(そめどの)でした。
 型友禅の市場拡大には日本画家も大いに貢献しました。維新と“遷都”でパトロンを失った絵師たちが下絵を提供したのです。その中には四条派の流れを汲む今尾景年(いまお・けいねん、1845~1924)、竹内栖鳳(たけうち・せいほう、1864~1942)らがおり、その写実的・絵画的な草花や風景は、旧来の類型的な絵模様を脱した新鮮なデザインとして人気を博しました。

2013/01(マ)
*次回は「在来産業のイノベーション(その2) ~ 清水焼(京焼)の危機突破策」です。

 【西陣織関連年表】

1477(文明9)9月 応仁の乱終わる(1467年5月~)
1504(永正1)   西軍の本陣跡地を中心に機業起こる
1585(天正13)   秀吉の機業保護・奨励策により、西陣しだいに盛んになる
1703(元禄16)   西陣機屋百六十余町の大機業地に発展
1730(享保15)6月 市中大火で百八町が焼かれ、織機七千余のうち三千余を失う(西陣焼け)
1788(天明8)1月 市中大火により西陣中枢部をほとんど焼失(天明の大火)、機業一時中断
1841(天保12)   災厄続きで、染織ともに不振に(この頃、機屋二千百余軒、織機三千百余)
1869(明治2)11月 西陣物産引立会社設立
1872(明治5)11月 洋式織法の修得のため、西陣の織工 佐倉・井上・吉田をフランスへ派遣
1873(明治6)   フランスとオーストリアからジャカード、バッタン機を輸入
1874(明治7)6月 京都府が勧業場の中に織工場(その後、織殿に改称)を開設し、技術伝習へ
1877(明治10)9月 西陣織物会所設立
        9月 荒木小平が木製ジャカード機を完成
1885(明治18)4月 西陣織物業組合が発足
1892(明治25)   この頃 西陣でネクタイ製織

【参考資料】

▽京都市編『京都の歴史』第7巻・第8巻・第10巻(學藝書林)
▽CDI編『京都庶民生活史』(京都信用金庫)
▽京都商工会議所百年史編纂委員会編『京都経済の百年』(京都商工会議所)

1928(昭和3)年、織物商三宅安兵衛の遺志を受けて上京区今出川通大宮東入北側の京都市考古資料館=元西陣織物館=構内に建立された「西陣碑」(文字は京都帝国大学総長荒木寅三郎が揮毫)で、碑文(同大学教授三浦周行が執筆)には西陣の由来が記されている。

ジャカードを搭載した織機の模型(西陣織会館にて)

精緻な紋様、細かな色づかいの製品は今も手織


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