第14回 民間企業の興隆と経済人の活躍(その2)
’86(明19)年からの好景気は3年程しか続かず、’90(明23)年には再び、全国的に不景気となります。金融ひっ迫・金利高騰が株式市場を襲い、株価暴落、会社倒産を引き起こしたのが原因でした。日本で最初の近代的経済恐慌でした。ただ、京都は琵琶湖疏水完成と、’94(明27)・’95(明28)年に開催予定の平安遷都千百年祭および第4回内国勧業博覧会の準備で、消費・賑わいが維持されていました。それでも会社設立は、’87(明20)年の勢いには及ばず、年間数社(金融を含む)程度にとどまりました。
明治24年版『京都府統計書』には、当時操業の銀行・事業会社とその概要が記載されていますので、同書から ’87(明20)年から’91(明24)年まで頃に設立された払込資本金額1万円以上の工業会社・商業会社(株式会社)を拾い、紹介します(設立年別、社名・事業・資本金額・所在地)。
[’87~88(明20~21)年設立]
淀川汽船(河川通運) 37万円 紀伊郡伏見町〈現 伏見区〉
嵯峨材木(材木薪炭販売) 3 葛野郡下嵯峨村〈現 右京区〉
丹後縮緬中郡(生糸縮緬売買) 3 中郡峰山町〈現 京丹後市〉
三英社(生糸縮緬売買) 2 中郡峰山町〈現 京丹後市〉
[’89(明22)年設立]
弓削製糸(製糸) 2 北桑田郡弓削村〈現 右京区京北〉
江越倉庫(貨物保管) 5 七条停車場前〈現 京都駅前〉
東洋水産(水産) 30 東三本木丸太町上ル
[’90(明23)年設立]
京都時計製造(掛時計製造) 2 麩屋町通竹屋町下ル
[’91(明24)年設立]
瓶原紡績(綿糸紡績) 6 相楽郡瓶原村〈現 相楽郡加茂町〉
当時の基幹産業であった繊維関係の会社が並ぶ中で、目を引くのが「淀川汽船」と「京都時計製造」です。
●淀川汽船
淀川には江戸時代から、伏見(平戸橋・蓬莱橋・京橋・阿波橋)―大坂(八軒家・淀屋橋・東横堀・道頓堀)間約45Km に舟便が回船され、賑わっていました(いわゆる三十石舟で乗客定員28~30人、上りはもっぱら川岸から舟を綱で引いていました)。明治になると蒸気船の就航が認められ、伏見と大阪の船主が各数隻、運航を始めました。1885(明18)年に夜間航行が許可されると乗客が急増し、蒸気船同士の競争も激化、業者共倒れの心配が出てきます。そこで ’87(明20)年、船主たちが話し合い、共同で設立したのが淀川汽船株式会社です。同社は持ち寄り船(記録では9隻)に加え新造船も就航させますが、’89(明22)年に東海道本線が全通すると、しだいに利用者が減少していきます。そして1910(明43)年の京阪鉄道開通で衰微は決定的になりました。
●京都時計製造会社
1890(明23)年、大沢商会の大沢善助らによって設立された掛時計製造が会社です(翌年、合資会社として登記)。体制が整い、実際に生産を始めたのは’92(明25)年11月のようでした。工場の動力として、他の工場にさきがけて電力を導入しています。しかし、当初は生産能力が上がらず、品質面でも問題をかかえたため、先進の名古屋から多数の時計熟練工をスカウトし、ようやく軌道に乗せたといわれています。当初は合資会社でしたが、’92(明25)年10月に株式会社に組織変更し、経営陣も入れ替わりました。その後、生産を拡大し、経営的にも伸張を期しましたが、工場火災や経済混乱による輸出停滞に見舞われ、1903(明36)年、廃業に追い込まれました。
さて、“1890(明23)年不況”は日本銀行(’82(明15)年設立)の救済措置によりパニックを脱し、さらに日清戦争(’94(明27)年7月~’95(明28)年3月) の戦勝によって一気に好転します。
ご承知のように日清戦争は、朝鮮を“市場”として意のままにすることを狙う日本と、李氏朝鮮の宗主国・清とが戦った戦争です。これにはシベリア鉄道敷設などで“南”への進出を目論むロシアの動向や、朝鮮国内における親日本派と親清国派の権力闘争もからんでいますが、ともかく日本は、’94(明27)年3月の朝鮮農民の反乱(東学党の乱)に乗じて軍を展開し(8月1日に両国が宣戦布告)、清国軍と陸海で交戦、勝利しました。そして日清講和条約(下関条約)により、2億両という多額の賠償金(当時の清国の歳入総額の2年分、日本円にして3億1000万円で日本のGNPの4分の1に相当するといわれています)を手に入れます。明治政府はこの賠償金を財源として「産業興隆」の積極策を打ち出し、日本中がにわかに活況となったわけです。投資ブームは’87(明20)年を上回り、全国的に鉄道・紡績・銀行といった事業が拡大しました。
*清からの賠償金は、露・仏・独による三国干渉を受けて遼東半
島を返還したことで増額され、総額2億3000万両となりました。
京都でも、戦時中は奢侈が控えられたため西陣織などの高額商品の売れ行きが落ち込みましたが、戦後は“戦勝景気”に第4回内国勧業博覧会(’95(明28)年4月1日~7月31日)と平安遷都千百年紀念祭(式典は同年10月22日から3日間)の“イベント特需”が重なり、他の府県にも増して景気好調、会社の設立も再び増加します。
全国的にみると、この経済拡大は長続きせず、むしろ急拡大の結果、物価上昇、輸入の大幅超過(貿易収支悪化)、資金需要増大による金融ひっ迫を招き、’97(明30)~’98(明31)年には恐慌状態に陥ります。これには日本銀行が救済融資に乗りだし小康を取り戻しますが、1900(明33)~’01(明34)年、恐慌が再燃します。後の恐慌は、会社ブームに浮かれて株式投機を行ったり特定企業に巨額の融資をした中小銀行(日清戦勝後のブームで多数の銀行が設立され、または事業拡大しました)が破綻し、さらに、急成長した紡績産業の輸出が停滞したこと(原因は中国市場の不振)が原因とされています。米国で“1901年恐慌”(原因はニューヨーク証券取引所のノーザン・パシフィック鉄道の株の暴落とされています)が発生した影響も被っています。日本は’97(明30)年10月1日に、清国からの賠償金をもとに、欧米で標準となりつつあった金本位制に移行していましたが、その結果、世界経済の変動の影響を受けやすくなっていたのです。前回に紹介した「関西貿易」も1901年5月に経営破綻します。
明治35年版『京都府第19回勧業統計書』によると、1901(明34)年当時の京都府下の工業会社・商業会社(金融を含む)として、銀行本店 73行、事業会社 318社(株式会社 107社、株式合資会社 2社、合資会社 158社、合名会社 51社)が記載されています。そのほとんどが1892(明25)~1901(明34)年に設立されたものです。しかも、払込資本金10万円以上の事業会社が 29社(株式会社 21社、合資会社4社、合名会社4社)と、大規模化しているのが分かります。この期間中の1899(明32)年に、旧商法に替わる商法(現行商法の元となる法律)が施行されたことも、会社設立と大型化を促進しました。
’92(明25)年から1901(明34)年頃まで頃に設立された払込資本金額10万円以上の大規模事業会社(株式会社)を列記します(1901年当時の社名・事業・払込資本金額・所在地)。
*’92(明25)年設立の大規模事業会社は見当たりませんでした。
[’93(明26)年設立]
京都電燈株式会社(電力販売) 56万円 河原町通蛸薬師[組織変更]
京都株式取引所株式会社(有価証券売買取引)
20 東洞院錦小路下ル[組織変更]
[’94(明27)年設立]
京都倉庫株式会社(倉庫業) 23 東洞院七條下ル[組織変更]
京都電気鉄道株式会社(電気鉄道) 60 東洞院通下ル
佛教生命保険株式会社(生命保険業) 17.5 御幸町通三條上ル
西陣撚糸再整株式会社(生糸の撚糸・販売織物の再整) 21 堀川頭寺ノ内上ル
[’95(明28)年設立]
日本撚糸株式会社(生糸撚製) 15.6 室町通鞍馬口
真宗信徒生命保険株式会社(生命保険業)12.5 油小路御前通南入
朝日生命保険株式会社(生命保険業) 10 六角通麩屋町西入
伏見酒造株式会社(清酒売買) 10 紀伊郡伏見町〈現 伏見区〉
西陣製織株式会社(綿布織物業) 21 新町通今出川上ル
平安紡績株式会社(綿糸紡績業) 49 岡崎町通
[’96(明29)年設立]
京都金融株式会社(金融貸付業) 24.9 烏丸通六角下ル
郡是製糸株式会社(羽二重・生糸製造) 12 何鹿郡綾部町
[’97(明30)年設立]
京都鉄道株式会社(鉄道) 387.6 葛野郡朱雀野村〈現 右京区〉
紫野織物合資会社(繻子製造) 15 愛宕郡大宮村〈現 北区〉
日本絹糸紡績株式会社(絹糸紡績) 79.8 葛野郡大内村〈現 右京区〉
京都合資会社(不動産・運輸業) 30 室町通三條北入
[’98(明31)年設立]
京都綿ネル株式会社(綿糸綿布製造) 70 葛野郡朱雀野村〈現 右京区〉
弁天合資会社(古代織物製造) 10 新門前通大和大路東
[’99(明32)年設立]
六條生命保険株式会社(生命保険業) 24 烏丸通七條下ル
東洋印刷株式会社(印刷・紙箱製造) 30 紀伊郡深草村〈現 伏見区〉
[’01(明34)年設立]
也阿彌ホテル株式会社(旅人宿営業) 10.5 圓山町〈現 東山区〉
依然として繊維関係が多いのですが、鉄道や生命保険、ホテル分野にも株式会社が登場してきました。
●京都電気鉄道株式会社
日本で最初に市街地路面電車(チンチン電車)の営業運転を行った会社です。琵琶湖疏水の関連施設である蹴上水力発電所(京都市営)の建設を受け、その電力大口消費事業として明治27年2月に設立されました。翌年2月、紀伊郡伏見町油掛―下京区塩小路(七条の京都駅前)間7Km で開業、さらに4月1日から、岡崎で開催の第4回内国勧業博覧会のアクセスとして、塩小路から五条小橋・二条大橋を経て疏水沿いに南禅寺舟溜まりに至る木屋町線も開通させました。以後、大正期まで、21.1kmの路線を有するまでに拡大しますが、1918(大7)年、市内における電車の運営統一を図る京都市に買収され、京都市電の一部となりました。
●平安紡績株式会社
京都の呉服商の共同出資により、設立されたといわれています。操業開始は1896(明29)年で、日清戦争の戦勝景気のもと順調に発展するかに見えましたが、直後の’97(明30)年と1900(明33)年の2度の経済恐慌に翻弄され、’00(明33)年5月に同業の伏見紡績(1895(明28)設立)と合併、1904(明37)年2月には資金繰り問題の関連で神戸紡績に改称した挙げ句、翌年5月、大阪紡績〈現 東洋紡〉に吸収合併されます。
●郡是製糸株式会社
(本シリーズ第8回を参照)
●京都鉄道株式会社
京都から舞鶴までの鉄道敷設・運行を目的として1897(明30)年、京都の有力経済人が設立しました。当時、舞鶴への鉄路は、京都鉄道会社のほか阪鶴鉄道(大阪―福知山舞鶴)、摂丹鉄道(大阪―園部―舞鶴)が計画、競合しましたが、熱心な働きかけによって京都鉄道会社が免許を獲得したのでした。
’97(明30)年の二条―嵯峨を皮切りに、大宮―二条、京都―大宮とルートを伸ばしましたが、園部―嵯峨間の保津峡が断崖絶壁、トンネル開削、橋梁架設などで難儀し、開通時(’99(明32)年8月)には資金難に陥りました。折しも政府が舞鶴鎮守府を開庁、京都―舞鶴間の鉄道を絶対必要な国策鉄道として国自ら建設に乗りだしたため、京都鉄道会社の路線は京都―園部間にとどまりました。そしてそれも、1907(明40)8月の鉄道国有化により、国に買収されました。
京都鉄道会社の本社社屋を兼ねて造られたのが旧二条駅舎(最古の木造駅舎)で、現在は梅小路蒸気機関車館に移築され、資料展示館として利用されています。
●佛教、真宗信徒、朝日、六條の各生命保険株式会社
日本に生命保険制度を紹介したのは、かの福沢諭吉です。そして最初の生命保険会社が1880(明13)年に設立(日東保生会社=‘81年倒産)されてから10年余り後、京都でも佛教 (’94(明27)年設立)、真宗信徒 (’95(明28)年設立)、朝日(同)、六條 (’99(明32)年設立)の各生命保険株式会社が相次ぎ誕生しています。
このうち佛教生保会社は特定教団が関係したものではありませんでしたが、真宗信徒生保会社は浄土真宗本願寺派(西本願寺)の有力信徒を発起人として設立されました。定款に純益の30%を西本願寺に寄贈することを定めているように、同寺への財政的寄与を有力な設立目的としています。ただ、後には西本願寺色を薄めるため、同寺所有の株式を財産管理財団の本末共保財団に移転するとともに共保生命保険と改称しています。さらに1934(昭9)年、野村財閥に経営権を譲渡して野村生命なり、戦後は東京生命相互会社に改組・改称されますが、結局、2001年(平成13)年に経営破綻しました。
六條生保会社は、真宗信徒生保会社に影響され、浄土真宗大谷派(東本願寺)の関係者が設立したものです。なお、朝日生保会社は、現行の朝日生命保険相互会社とは関係ありません。
●京都綿ネル株式会社
綿ネルは綿織物を起毛した布生地で、肌触りが柔らかく暖かいのでバジャマ、ベビー衣料などに使われています。
京都綿ネルは、1895(明28)年に西陣の機業家らが出資して発足しました(発足時は「五二会京都綿ネル」)。’97(明30)年に株式会社化し、’98(明31)年に葛野郡朱雀野村〈現 京都市右京区〉に工場を建設、フランスから購入した2色両面捺染機によって一貫生産体制を打ち立てました。1901(明34年)には北側に隣接していた京都紡績を合併し拡張しています。同社は、京都はおろか日本でも有数の会社に成長、株式も公開(’07(明40)、大阪株式取引所)し、’08(明41)年には社名を日本製布株式会社に変更しますが、しだいに経営不振に陥りました。工場施設は売却されましたが、旧本社建物などは’48(昭和23)年に日本写真印刷株式会社の所有となり、保存されています。
●也阿彌ホテル株式会社
也阿彌(やあみ)ホテルは京都で初めての外国人向け宿泊施設(と言っても建物は和風ですが…)兼西洋料理店です。知恩院の南側の、時宗・安養寺の境内で塔頭が営んでいた宿泊所・料亭施設の6阿彌(左阿彌、眼阿彌、蓮阿彌など)の一つでした。1881(明14)年に、長崎で外国人のガイドをしていた井上万吉が買い取って改装し、営業を始めました。とはいえ、当初の外国人旅行者・滞在客はそれほど多くなかったようで、日本人向けの西洋スタイルの宴会(パーティー)を主営業にせざるをえなかったようです。’88(明21)年には、後に京都ホテルとなる「常盤ホテル」が営業を開始、競争が激化し、両社とも厳しい経営が続いたと思われます。そして、ついに’95(明28)年、也阿彌ホテルの井上万吉とその弟が常盤ホテルを買収し、共倒れを防いだのでした。ただ、也阿弥ホテルは’99(明32)年と1906(明39)年の2度、火災を起こしたため、常盤ホテル側に経営資源を集め、以後、京都を代表するホテルとなっていきます。この過程で、’01(明34)年に株式会社を設立・改組しています。
1901(明33)年からの金融恐慌は2年程で収まりますが、経済停滞は’02(明35)年以降も続きます。この鬱々とした状態を吹き飛ばしたのはまたもや戦争――、’04(明37)年2月からの日露戦争(戦後特需)でした。その動向などは次回に。
2013/12(マ)
*次回は「民間企業の興隆と経済人の活躍(その3)」
【関連年表】
1890(明23)4月 琵琶湖疎水竣工式
1890(明23)京都織物会社が操業を開始
1890(明23)国内景気後退、不況へ
1890(明23)3月 旧民法公布(ただし施行は’93まで延期かつ部分的となった)
1890(明23)11月 第1回帝国議会(国会)開院
1891(明24)5月 蹴上発電所完工(11月送電開始)
1891(明24)京都商工会議所が京都商法会議所に改組(1929=昭4年、商工会議所に再改組)
1894(明27)日英通商航海条約調印(内容は領事裁判権の撤廃と関税率の引上げ、および相互対等の最恵国待遇で、不平等条約改正の第一歩となった)
1894(明27)7月 日清戦争開戦(~’95(明28)年5月)
1895(明28)4月 下関で日清講和条約(下関条約)締結(17日)
1895(明28)5月 露・仏・独の三国干渉を受けて遼東半島の清への返還を受託
1895(明28)2月 京都電気鉄道が、塩小路~伏見・油掛間に日本で初の市街地電車(チンチン電車)を開業
1895(明28)4月 京都・岡崎で第4回内国勧業博覧会開催(1日~7月31日)
1895(明28)10月 平安遷都千百年紀念祭(22日から3日間)
1896(明29)景気好転、銀行・鉄道などへの投資ブーム起こる
1897(明30)京都鉄道株式会社設立(京都―舞鶴間の鉄道敷設を目指し同年中に二条―嵯峨間開通)
1897(明30)10月 日本が金本位制に移行
1897(明30)景気が悪化し、恐慌状態となる(~’98年頃まで)
1899(明32)改正商法(現行商法の元となる法律)施行
1901(明33)国内で金融恐慌発生
1901(明34)5月 米ニューヨーク証券取引所で株式大暴落、世界年恐慌に発展
1904(明37)2月 日露戦争開戦
【参考資料】
▽国立国会図書館近代デジタルライブラリー所蔵『京都府統計表』または『京都府勧業統計報告』の明治13年以後各年版
▽小橋一郎『わが国における会社法制の形成』(国連大学・人間と社会の開発プログラム研究報告)1981年
▽京都商工会議所百年史編纂委員会編『京都経済の百年』(京都商工会議所)
▽京都市編『京都の歴史』第8巻・第10巻(學藝書林)
京都綿ネル株式会社の本社(1906(明39)年建設)。正面の車寄せ、連続するアーチ窓、屋根窓の典型的な洋風建物です。現在は日本写真印刷株式会社が現状保存しています。
1912年(明45)年に完工した真宗信徒生命保険株式会社の本社社屋。設計は平安神宮などを設計した伊東忠太です。現在は西本願寺伝道院(京都市下京区東中筋通正面下ル)。
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