第12回 琵琶湖疏水のたまもの(その2)
蹴上から琵琶湖疏水(分流)沿いに、南禅寺、鹿ヶ谷(ししがたに)、若王子(にゃくおうじ)へと歩くと、見るからに広大な“お屋敷”が次々と現れます。いわゆる南禅寺界隈の別荘群です。長い塀の内側はいずれも趣向を凝らした数寄屋造りの邸宅と庭園の異空間です。若王子から銀閣寺方面へは、疏水の細流(せせらぎ)が山裾をつないでいきます。その側道が「哲学の道」です。これらの景観は、実は琵琶湖疏水事業の“副産物”なのですが、京都の近代化の過程で創りだされた“文化”という点では、まぎれもなく“たまもの”です。
では、なぜ南禅寺界隈に別荘が営まれるようになったのかを探ると、琵琶湖疏水による水車動力利用計画が、水力発電所建設(電力利用)に変更されたことが背景にありました。
これまで何度か取り上げたように、琵琶湖疏水の第一の目的は「水車を回して機械を動かし、新しい産業(工業)を興す」ことにありました。しかし、工事主任の田辺朔郎と府議会議員の高木文平が1888(明21)年に、モデルと考えていた米国ホリヨーク(マサチューセッツ州)の施設を視察したところ、皮肉にも“もはや水車の時代ではない”と悟り、計画を水力発電による動力確保に変更します。それに伴い、若王寺から鹿ヶ谷村一帯に予定していた、水車動力を前提とする大規模工場団地の計画も宙に浮いてしまいます。当然、工場団地として整備される予定であった南禅寺周辺の土地の活用が新たな課題になります。これを受けて、疏水による水車動力利用の権利を取得していた近江出身の実業家、塚本与三次(つかもと・よさじ、京都商事社長)が構想したのが高級別荘地への転用(分譲)でした。京都市もまた、’95(明28)年、疏水沿いの地域を含む東山一帯を風致保存地区にする方針を打ち出すとともに、宅地化を誘導していきます。
ところで、疏水関連施設のインクラインや蹴上げ舟溜まりの建設地、工場団地予定地のほとんどは南禅寺のかつての境内・寺領で、塔頭(たっちゅう)のほか、畑地や緩衝林として使われていました。南禅寺は徳川幕府とつながりが深かったので、こうした広大な土地を寄進され、所有が認められていたのでした。しかし“ご一新”で、明治政府が1871(明4)年と’75(明8)年の2度にわたり上知令を発布したため、一転、全国および京都の大寺院の所有地ともども召し上げられてしまいます。このシリーズの第7回で、京都・寺町の寺院から没収した用地に、京都府が「新京極」を開設(’72年)したことを紹介しましたが、南禅寺の旧寺領については結果的に高級別荘地として分譲されることになったのです。
この地にいち早く別荘を計画したのは時の権力者、山縣有朋(やまがた・ありとも、1838~1922)でした。山縣は長州藩士のころ京都で諜報活動に従事したことがあり、また明治になってからは琵琶湖疏水工事を認可した内務大臣、完工時には総理大臣として竣工式に列席するなど、京都および琵琶湖疏水と因縁浅からぬ軍人政治家です。普請道楽・造園好きとして知られ、東京・目白の本宅(現在の椿山荘)のほか、出身地山口県の下関や大磯、京都、小田原に次々と別荘を造っては譲渡していきました。そのうち京都では、最初(‘91年)、木屋町二条の旧角倉邸を購入し「無鄰菴(むりんあん)」と称します(現在は料亭「がんこ高瀬川二条苑」)。次に、’94(明27)年に旧南禅寺領の一角(現 草川町)3,100平方メートルを購入し、新たな別荘(現在の無鄰菴)の造営に着手します。
このとき作底を任せたのが七代目小川治兵衛(おがわ・じへえ、1860(万延1)~1933(昭8)、屋号は植木屋治兵衛・略称「植治」)でした。完成は’96(明29)年で、建物は数寄屋造りの母屋と茶道藪内流の「燕庵(えんなん)」を模した茶室、それに煉瓦造り二階建て洋館1棟(洋館は’98年完工)にとどめ、敷地の大半を庭園にしています。それは東山を借景に、明るい芝生に浅い流れを配した開放的な池泉廻遊式庭園で、日本の近代庭園の先駆けとなりました。それまで、庭園に水の流れをつくるのは、水の確保や排水などから容易なことではなかったのですが――その代わり、白砂を水に見立てる枯山水の庭園様式が発達しました――無鄰菴は琵琶湖疏水を引き込み、これを実現しました。
琵琶湖疏水の利用目的に“個人宅への水供給”はありませんでしたし、まして庭園に流すためと言うと市民の反発も予想されたため、このときは防火用水として京都市当局の許可を得ています。山縣は、相応の金額を市に寄付したということです。
以来、南禅寺界隈に用地を確保し、趣向を凝らした邸宅と「植治」による庭園を造営する―その庭には疏水から水を引き入れる―ことが財界人の憧れとなり、ステイタスにもなりました。こうして明治末期から昭和に至るまでの期間に、「対龍山荘(たいりゅうさんそう)」、「何有荘(かいうそう)」、「洛翠(らくすい)」、「流響院(りゅうきょういん、旧織宝苑)」、「碧雲荘(へきうんそう)」、「清流亭(せいりゅうてい)」、「有芳園(ゆうほうえん)」、「真々庵(しんしんあん)」 など、今に残る名邸・名園がこの地域に築かれたのです。
ちなみに対龍山荘は、薩摩藩出身の伊集院兼常(いじゅういん・かねつね) が’96(明29)年に自邸と庭園を建造したのが始まりで、これを1901(明34)年、彦根出身の京呉服商、初代市田弥一郎(いちだ・やいちろう、1843~1906、市田株式会社の設立者)が譲り受け、現在のように増改築しました。ぜいを尽くした数寄屋造りの母屋(「京数奇屋名邸十撰」に挙げられています)は、東京の大工・島田藤吉(しまだ・とうきち) によります。作底はもちろん「植治」です。
何有荘も元は民間人の邸宅でしたが、’05(明38)年、日本における化学染料製造の草分けとなった稲畑勝太郎(いなばた・かつたろう、1862~1949、稲畑産業創業者) が譲り受け(このときの名称は和楽庵)、隣接する農地や疏水用地を買収、整備していき、本邸、内外の要人の迎賓館、社交場。音楽活動の拠点として活用しました。その後、実業家の大宮庫吉(おおくら・くらきち、1886~1972、宝酒造の中興の祖として知られる) の所有となり、「何有荘」と改名されました。「植治」による庭園は、傾斜地を利用したダイナミックな作底で、滝が3カ所に築かれ、疏水から引き込んだ水を豊かに落としています。山沿いに道も整備され、鐘楼や水車小屋などを見ながら山上の草堂に向かうという趣向です。錦秋の頃には紅葉の赤と滝の白、芝生や苔の緑が映え、しかも調和した美を演出します。
琵琶湖疏水建設時、もし当初計画どおり動力源の水車が設置され、それを利用する工場が一帯に建設されていたなら今に伝わる日本の近代庭園文化は生まれておらず、それどころか、この地域だけでなく東山山麓の環境が影響を受けていたかもしれません。
ところで、“琵琶湖疏水のたまもの”としての景観保全は祇園白川などにも及んでいます。というのも、大文字山の北部を銀閣寺方面へ下ってきた白川は東山山麓を南へ向かい、南禅寺付近でさらに西南にとって岡崎を斜めに抜け、祇園を横切って鴨川へ注いでいますが、その途中に一度、琵琶湖疎水に合流(蹴上舟溜まり)し、程なくして(鴨東運河の国立近代美術館付近で)再び白川として流れ出しているのです。琵琶湖疎水の建設に当たり、このような設計にしたのでしょうが、おかげで白川は、増渇水のときも下流部は一定の水量に保たれ、治水と良好な河川環境が維持できるようになりました。こうして街なかの親水性、とくに祇園白川地区には情緒ある景観をもたらしているというわけです。ちなみに白川は、上流から花崗岩由来の白砂を運んできます(ゆえに「白川」と名付けられました)。琵琶湖疎水との合流地である蹴上舟溜まりには、この白砂を回収する施設が設けられています。
2013/10(マ)
注) 現在、無鄰菴は京都市が所有・管理し、対龍山荘は株式会社ニトリの保養所・宿泊施設に、何有荘は米国オラクル社のCEOラリー・エリソン氏の所有、洛翠は日本調剤株式会社の施設、碧雲荘は野村證券グループが管理、流響院は真如苑の所有、清流亭は大松株式会社の所有……などとなっています。無鄰菴以外は非公開です。
*次回は「事業会社の興隆」です。
【南禅寺界隈の別荘関連年表】
1890(明23)4月 琵琶湖疎水竣工式
1890(明23)4月 鴨東運河完工
1891(明24)11月 蹴上インクラインが電気運転を開始(12月26日営業開始)
1892(明25)7月 北垣国道知事が北海道開拓使長官に転任
1894(明27)山縣有朋が旧南禅寺領の一角を購入し「無鄰菴」造営に着手
1895(明28)2月 京都電気鉄道・伏見線(伏見町油掛~七条)開業
1895(明28)平安遷都千百年記念祭・第4回内国勧業博覧会開催(会場は岡崎)
1895(明28)京都市が疏水沿いの地域を含む東山一帯を風致保存地区に
1896(明29)「無鄰菴」が完成し、庭園に琵琶湖疏水の水が引き込まれる
1896(明29)薩摩藩出身の伊集院兼常が旧南禅寺領分譲地に自邸と庭園(後の対龍山荘)建設
1901(明34)初代市田弥一郎が伊集院兼常邸を譲り受け増改築に着手(このとき名称を対龍山荘に)
1903(明36)4月 21日に無鄰菴で、元老山縣と政友会総裁伊藤博文・総理大臣桂太郎・外務大臣小村寿太郎が「無鄰菴会議」を行い、日露戦争開戦後の日本の対外政策などを協議
1905(明38)稲畑勝太郎が旧南禅寺領分譲地の民間人宅を購入し「和楽庵」(後の何有荘) 建設
1912(明45)5月10日に第2琵琶湖疏水通水
【参考資料】
▽京都市上下水道局・琵琶湖疏水記念館常設展示図録(2009年版)
▽京都市編『京都の歴史』第8巻・第10巻(學藝書林)
▽鈴木博之『庭師小川治兵衛とその時代』(東京大学出版会)2013年
旧山縣有朋別荘「無鄰菴」の庭……東山を借景に、明るい芝生に浅い流れを配した開放的な池泉廻遊式庭園(七代目小川治兵衛作)で、琵琶湖疏水の水を引き込んでいる
哲学の道……南禅寺から銀閣寺に至る琵琶湖疏水の側道で、かつて哲学者で京都大学教授だった西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことからこの名が付けられたと言われる。1972(昭和47)年に正式な名称となった
南禅寺から若王子にかけての一帯は宅地化が進んだとはいえ、今も里山の風情を残している
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