第22回 近代京都の都市基盤を築いた「三大事業」(その2)
京都市が近代都市に不可欠の基盤施設(いわゆるインフラ)整備に取り組んだ三大事業 ―― 第二琵琶湖疏水(第二疏水)建設、上水道整備、道路拡築および市電敷設 ―― の概要をみます。まずは第二疏水と上水道整備です。
■ 琵琶湖疏水拡張計画 転じて第二疏水建設へ
第二疏水は、1890(明23)年の琵琶湖疏水(第一疏水)完工の、早くも数年後に構想が持ち上がりました。というのも、第一疏水工事中に建設を決断した蹴上水力発電所(送電開始は1892(明25)年1月)が、電灯や工場動力の急速な普及・需要増大により、遠からず能力不足に陥る恐れがでてきたからです。また、市中の衛生状態の悪化で伝染病が頻発するようになり、上下水道の整備も急務になっていました。発電量の引き上げ(発電機増設)や水道設置には、さらなる水が必要です。そこで明治20年代後半、第一疏水の拡張などの検討が行われ、内貴甚三郎市長時代(在任1898 ~ 1904)に第二疏水建設計画へ発展したのです。
しかし、実際に第二疏水工事が始まったのは、調査開始から10年以上後の1908(明41)年でした。事業化が遅れたのは、日露戦争(1904~05)などで国の事業認可・補助が得られず、また、京都市も建設資金調達がままならなかったことが考えられます。
この間にも電力需要は伸びる一方で、蹴上発電所の電力供給開始時に使用工場はわずか1工場、電灯使用戸数は740戸だったのが、10年後の1902(明35)年には使用工場数百余り、電灯使用戸数も5000戸を超えるまでになっていました。すでに蹴上発電所の発電能力の限界に達し、後がない状況です。また、飲料水や工業用水の確保でも、打つ手無しの状態に追い込まれていました。
そこで京都市は、第二疏水の早期着工は緊急の課題として、1902(明35)年10月に「琵琶湖疏水路開鑿願(かいさくねがい)」を京都府に提出し(滋賀県には’05(明38)年に同じ趣旨を伝達)、速やかな対応を強力に働きかけたのでした。願書には、第二疏水によって①水道計画実現、②下水改良、③防火、④発電事業拡張、⑤新規事業開発を行い、市民の安全衛生確保と産業振興に役立てるとの建設趣旨が記されています。この結果、日露戦争後の ’06(明39)年、ようやく京都府ならびに滋賀県から承認が得られ、また資金手当も国内で債券が発行できるようになったことで ’08(明41)年10月、着工にこぎ着けたのでした。
第二疏水は、第一疏水の北側をほぼ並行して建設されました。ただし、ほとんどトンネルです。これは、目的の一つが水道水確保だったので、安全を確保する意味合いからです。日本のトンネル掘削技術が進んだことで実現したといえます。トンネルなので直線をとりやすく、全長は第一疏水よりは短い約 7.4キロとなりました。
工事そのものは大きな事故もなく、4年後の ‘12(明45)年4月に完工しました(全通水は5月)。要した費用は総額149万3782円で、その過半がトンネル工事費でした。
■ 水力発電と上水道にフル利用
主な利用目的である発電事業拡張は、まず蹴上発電所の発電機増設で2000馬力から2倍の4000馬力に倍増し、さらに夷川発電所(タービン1基・発電機1基で500馬力)と伏見発電所(タービン1基・発電機2基で3300馬力)を新設し、’14(大3)年までに合計発電量(総能力)を7800馬力としました。これは、第一疏水だけのときの蹴上発電所の能力に比べると約4倍です。
発電能力増強、変電施設整備によって京都市中への電力供給体制が整い、直面する電力不足問題は解消に向かいました。しかしそれも一時的で、’14(大3)年の第一次世界大戦勃発に伴う“戦争景気”により電力需要が急増、再び電力供給不足をきたします。抜本的解決は、大正末期の市営横大路火力発電所稼働と、京都電燈会社の発電能力増強まで待たなければなりませんでした。
第二疏水工事に合わせ、’09((明42)年から上水道の給水施設の建設が始められました。まず蹴上に、疏水から取水した水を浄化、送水するための浄水場を建設。市中では配水管の敷設工事が行われました。蹴上浄水場には沈澱池、ろ過池(ろ過槽、導水溝、硫酸アルミナ溶液室などで構成)、そして配水池、ポンプ室が整備されます。同浄水場は東山の華頂山山麓の限られた用地で、ろ過池の面積・容量に制限があったので、“急速ろ過”という浄化方式が採用されました。同方式は、今でこそ一般的ですが、日本では蹴上が初めてでした。また、配水方式は、地形を利用した自然流下式としました。配水管は幹線52キロ・支線139キロ(総延長190キロ余り)が敷設され、’12(大1)年4月、上水道の給水が始まったのです。当初の一日当たりの最大給水量は約3万立方メートルでした(現在は一日最大給水量も約70万立方メートル)。
当初の給水エリアは、北が疏水運河に沿って金閣寺の南端、西は豊臣秀吉が築いた“お土居”まで、南が京都市と伏見町との境界付近まででした。そして実際に給水を受けたのは約4万人で、当時の京都市人口約50万人の10%以下でした。
上水道についても、その後の市中人口の急激な増加と、’18(大7)年の隣接16町村編入で人口が膨れ上がり、需要に供給が追いつかなくなっていきます。そこで京都市は’24(大13)年度から’27(昭2)年度まで上水道の第一期拡張事業に取り組み、松ケ崎にも浄水場を新設します(緩速ろ過方式採用)。そして最高区配水池を松ケ崎西山(五山の送り火の「妙」付近)に設け、市北部への給水を可能にしました。
このように、琵琶湖の水を大量に京都市中に導き上水道を整備したことで夏の井戸枯れで悩んでいた日常生活が救われ、衛生状態もある程度改善し、また水に依存する食品そのほかの産業も安定的に操業できるようになりました。また、鴨川や市中の小河川にも流されることで、渇水期の汚濁を抑えることにもつながったのです。
2014/08(マ)
*次回は「三大事業」(その3)です。
【関連年表】
第21回の付属年表を参照
① 1912(明45)年に完工した第二疏水路はほとんどがトンネルで、琵琶湖からの水は蹴上に出てすぐに第一疏水と合流し、発電と上水道用に分配水される(写真中央は蹴上の第二疏水トンネル出口)
② 第二疏水の通水で京都市中の水力発電量が増えた(写真は今も稼働している夷川発電所)
③ 京都の水道の歴史は蹴上から始まった(写真は蹴上浄水場の建物)
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